ムンク伝・その3

前日のつづき。

ムンク伝

ムンク伝

 

祖国に戻り念願の野外アトリエ完成。

子供[自分の作品]を天日晒しの荒療治

造りは簡単なもので、長方形の囲いに張出し屋根を載せ、カンヴァスを降雪から護る仕掛けである。ムンクは外套を着込み、片手にパレット、囲いに子供たちをぐるりと幾人か並べ(略)
[絵の穴を訪問者に指摘され]
「それは残念!」ムンクが大声で言う。
「そう、あの犬、あそこにいるやつが頭から勢いよく突っこんで、駆け抜けたんだよ」
「どうして、あんなにあぶなっかしい恰好で外に置いておくんですか」。事情もよくわからないまま、訊いてみた。
「自分の身を自分で守るのは、連中のためにもなるのさ」とムンク
(略)
聞き分けの悪い子供をリンゴの木の上に投げあげたこともあれば、たまに料理をするときに鍋の蓋代わりにして、湯気のついた様子をしげしげ眺めることもあった。「なるほど。あの絵はしばらくああしておいて、落ち着くのを待ったほうがよさそうだ……少し雨に濡れ、爪かなにかで引っ掻かれ、ありとあらゆるくたびれたケースにしまって世界中を引き回されたら、いくらかよくなるだろう……しばらくすると、見違えるようになるかもしれない……」。
(略)
色彩が「落ち着く」まで絵をありとあらゆる天候に何年でもさらしておける野外アトリエの利点
(略)
 小屋の壁に掛かる絵は、秋の日を受けて宝石のように輝いていた(略)まったく忘れがたい光景だった。繊細で、乾いた色調の彩りもじつに美しい。ところが近寄ってよく見ると、絵は崩れかかった壁画のようだった。色彩は渇ききって剥がれそうな薄片となってたれさがり、風が吹けばすぐにも落下しそうである。カンヴァス地の織りまでくっきり見える箇所がいくらもある。というわけで、ムンクはこの過激な療法を熱心に擁護するけれども、それはじつに効果的な絵の破壊法としか思えず、わたしは重苦しい気分に包まれた。
 そうした批判に対して、ムンクはどう答えたのだろうか。あるときは、「良い絵はちょっとやそっとで駄目になりはしない。貧弱な絵に限って小ぎれいにして、金の額に入れてやらなければならなくなる」と言いながら、絵を蹴飛ばした。
(略)
 この荒療治の目的は、絵の表面を乾いた、艶消しのフレスコに似た状態にするのがひとつ、もうひとつはカンヴァスに時間の要素を採り入れることにあった。そうすることによって絵画は崩壊過程の只中にある感覚を備え、ボンペイの剥落しつつあるフレスコ画や、滅びて今はないビザンティン帝国の臣民の葬儀用肖像画のような、見る者の感情に訴える格別な気配を帯びることになる。子供のうちのだれが生き延び、だれが落伍するかまったく予断を許さないことも絵の擬人化にいっそうの真実味を添え、過激な療法を進化論に基づく適応の度合いを計る刺激的な実験に変えるのだった。
(略)
ムンクと同じ時代を生きた人びとは、戸外に並べられた絵が沈む夕陽の斜光を受ける様や、流れる雲の影が色彩をひととき抑えた後、鮮やかに蘇らせる様を見て、ことばには言い表わせないほど心を動かされたと口を揃えて述べている。これは室内の展示よりもはるかに強烈な体験だった。
(略)
絵から絵へと、ゆっくり歩むうちに、雪が降りはじめた、すばらしい色彩が、白い覆いの下になり、少しずつ消えてゆく

ピカソ

ケルンで開催された分離派展では、ピカソムンクにそれぞれ個室があたえられた。ピカソムンクにとって気になる存在だったのは明らかで、とくにキュビスムの作品を見るムンクの眼差しには妬みが窺える。キュビスムムンクの生前、まったくかれの手を借りずに世に出た初めての新しい美術の動向であった。少なくともムンク自身はそう思った。そこでムンクは折に触れて「ピカソより遥か以前にキューブを発見した」と語り、《病める子》で初めてそれを用いたと主張するにいたる。
(略)
ふたりが写真の台頭について議論していたところ、ピカソがカメラの発達は絵画の死を告知するだろうとの絶望と不安を語ったのに対して、ムンクは「カメラをもって天国に昇ったり地獄に堕ちたりできるようになるまでは、写真は少しも脅威にならない」と自信たっぷりだったという。

税金に激怒

[戦後]ドイツの友人たちの掛け値なしの窮状を目の当たりにして、ムンクノルウェーの税務当局の貪欲な要求にさらに怒りを募らせた。(略)どれも倉庫とアトリエである。どれも子供たちを収容するためのものであり、子供がいなければムンクは生きていけないし、絵を描くこともできないのに、宝石のように身勝手な贅沢と同じように税金を課せられる。

有名税

 ノルウェーの新聞各紙はムンクは大金持ちという神話を盛んに書きたてる。かつては何をしてもうまくいかず世間の不興を買ったものが、今度ばかりはうまくいきすぎたのが崇り、世間から冷たい目で見られることになった。施しを乞う手紙が殺到し、金を用立ててほしいと頼みにやってくる人びと(略)
 ノルウェーは、あまりにも目立ちすぎる、最高の名士が気に入らなかったのだろう。(略)報道機関の非難とはまた異種の攻撃を受ける。金網の塀越しに、飼い犬が撃たれたのである。(略)電話と玄関の呼鈴は四六時中いつ鳴り出すかわからない。傍若無人な若者たちが、有名な芸術家と話ができるか賭けをして、そうした心ない振舞いにおよぶのである。
 ムンクは以前にも増して引きこもりがちになった。(略)孤立がきわまり、預言そのままに浮世離れした、世情に疎い芸術家伝説の生まれ変わりとなる。夜はガス銃と小さな斧を枕元に置いて寝た。家中のすべてのドアにばね錠をとりつけて、鍵はだれにも渡さなかった。

ムンクはこのことに関しては、自分から努力する必要はなかった。いよいよ息を引き取るというときまで、女たちの方からムンクのもとにやってきたからである。結婚したり、よそに行くことになった前任者に薦められて訪ねてくる女たちも少なくない。(略)
当時は一般に、モデルと娼婦の境がはなはだ曖昧だった。愛人になることが、半ば期待されていたふしもある。インゲボルグの絵の展開からは、醒めた気持ちから始まった間柄がしだいに熱を帯びてゆく様がありありと見てとれる。情熱が高まるにつれ、筆遣いは荒々しく乱れ、奔放な恍惚感を滲ませ色彩も深まってゆく。ムンクは厖大な数のインゲボルグの絵を描いた。ヌードもあれば着衣もあり、足を洗ったり鶏に餌をやったり、エーケリーの果樹園でリンゴを摘んだり、岩場で日向ぼっこをしたりというように、ふだんの暮らしの一場面を捉えたものが多い。(略)インゲボルグに出会って、ムンクはそれまでとは違う、白地に絵具を厚く塗りつける新しい描法を試しはじめる。絵具は渦を巻き、飛沫をあげる。それが頂点に達する《泣くヌード》
(略)
日記によれば、生前のムンクが膨大な数の女たちと寝たことはまちがいない。(略)[性をオープンにした世代風潮に比べ]文字による淫行に耽ろうとした試しがない。唯一の例外は童貞を失ったときの「……かれは彼女の上に身を横たえた」のみ。(略)
表向きの絵画制作と並行して、ムンクは人知れず画帖に春画を描きためた。またこうした絵を手がけるかたわら、日記では純潔や貞節の美徳を讃えている。(略)春画の特徴のひとつは、開いた外陰部や勃起した陰茎を見せないことにあり、こうした抑制の効果は「魂、内面の世界のみが真の現実、宇宙」であるような作品を描こうとした初期の意図通りであり