「靖国」上映中止をめぐって

靖国」上映中止をうけての会見、対談、鼎談

映画「靖国」上映中止をめぐる大議論 (TSUKURU BOOKS)

映画「靖国」上映中止をめぐる大議論 (TSUKURU BOOKS)

右翼活動40年の俺がついていながら上映中止となって正直スマナンダと鈴木邦夫。「全ての責任は僕にあるが」

言論の場が与えられたら、街宣なんかやらなくていいんです。(略)
皆さんも映画館の前に行って、右翼が来たらマイクを突き付けたらいいんですよ。
 そしたら、信念のある、本当に思想でやってる右翼であれば(略)「ありがたい」と思って堂々と議論するでしょう。ただ嫌がらせで来ている人ならば、とてもじゃないけどイヤだと言って帰るでしょう。そういうことを皆さんがきちんとやっていただければいいと思います。
 映画館がだらしないと言う人もいますが、しかしそれは映画館がかわいそうです。はっきり言って、右翼は怖いですよ。僕だって脅されていますから。じゃあ誰が守るのかといったら、やはり言論に命をかけている皆さん方が守ってあげるしかないと思います。タレントが離婚したとかそんなことで何十人も集まるんですから、そんな余力があるなら、映画館の前にきちんと待機して、守ってあげればいいんです。
 そして街宣車が来たら、彼らを囲って話を聞いてあげればいいんですよ。僕だったらその方がうれしいし、ちゃんと話をします。メディアの人たちは右翼に、「言論の場をきちんと与えるから、人が怖がるような街宣はやめてくれ」と言ったらどうですか。

森達也

今回はメインの被写体である刀匠の意向が問題になっていますが、一瞬だけ映りこんだ人だって事情は同じです。映りこんだ現実すべてから了解を取らなければいけないのなら、もう街中でカメラを回せません。(略)
 それがドキュメンタリーというものです。とても悪辣なジャンルです。人権や規範を最優先にしていては何も撮れなくなる。人を傷つける仕事です。鬼畜の所業です。テレビに代表される映像メディア全般は、自らの加害性や悪辣さに目を向けず、公正中立や不偏不党などの虚妄のドグマに没入し続けていた。そういった悪辣さがあるからこそ、人の心に強く訴えることができるという現実から目を逸らしてきた。そのツケが回ってきたという感じです。
(略)
被写体の了解があるかないかも、どうだっていいんです。踏みにじらないとドキュメンタリーなんて作れない。それによって人を加害します、その責任なんてきっと取れない。映像メディアはそれほどに強烈な加害装置です。その覚悟をしなくてはならない。
 責任を取るなどと気軽に言うべきじゃない。責任なんて取れない。自殺するほどに人を追い詰める場合もあるのです。その責任を取れますか? 僕ら制作者が覚悟すべきは、責任を取れない覚悟です、明らかに規範を超えています。それほどに悪辣で乱暴なことをしても、伝えたいからです。伝える価値があると信じている。ギリギリでやっているんです。そこに手を突っ込まないでもらいたい。しかも、たぶん有村さんも稲田さんも、あまり考えていないんです。

以下、すべて原一男
肖像権、撮られる側の覚悟

あの刀鍛冶の人に、前もってどこまで話をしていたかが問題にされていますね。同じ作り手として言うと、確かに相手がOKしてくれないと困るわけです。だから、相手がOKしてくれるように、話を持っていくことが多い。相手が抵抗感や反発を示すような言い方は避けるのです。李監督が実際どのように説明したのか、詳しくはわからないのですが、私ならそうかもしれない。これは難しい問題です。
(略)
 作り手の実感として言うと、撮られる側が肖像権などという言葉を持ち出して「映されてもいいが、出来上がる前に見せてくれ」と言われることについて、私はどうも引っかかるんです。もちろん、相手を否定しようと思って作るわけじゃない。私の場合は、生身の人間を撮って、その人間を基本的には肯定するというか、支持する。だから映画を作りたいというエネルギーが出てくるんです。
 でも、そういうふうに思ってカメラを回していく中でも、相手を批判するところは出てくるだろうと思うのです。全部が全部肯定するというわけにはいかない。その時に、相手を批判する自由が、作り手にないと辛い。だから、「公開する前に見せてくれ」ということで撮影をOKするということを相手が主張した場合は、基本的に「撮る撮られる」という関係ができなかったと思った方がいい。
 撮られる側も覚悟が要る、というのがドキュメンタリーの仕事だと思うのです。(略)「あなたの心の内側にカメラは踏み込んでいかざるをえないんですよ」ということを覚悟してもらわないとならない。

マイケル・ムーア

「神軍」を観て、衝撃を受けたそうですよ。「こんなことをやっていいのか」と。アメリカでは、肖像権をめぐってすぐ訴訟沙汰になりますから。彼が「神軍」を観てひらめいたのが、突撃インタビューで自分が画面に出るという方法です。それから、同時にユーモアで逃げるということ。(略)相手が大物のときはアポ取りの段階から映像にして、ちゃんと手続きは踏んでるよ、ということで、言いたいことを言い合う。それを笑いで、なかなかいい雰囲気を作り出していて、うまい戦術だなあと思いました。

映画自体について

 それから私が引っかかるのは、李監督が「記号」という言葉を使って、「靖国」という映画の方法論を彼なりに、今までになかった方法だということを主張したことです。「ゆきゆきて、神軍」についての感想を訊かれて「あの映画は個人を追っているのだが、自分は特定の個人でなく、『記号』としての靖国について撮りたかったんだ」という趣旨のことを言っています。
 でも私が見るところ、彼の作品で「記号」ということが貫徹されているかというと、貫徹されていないのではないかと思います。「靖国」の中で、観ている側に良くも悪くもいろいろなことを感じさせてくれるシーンがいくつかあります。そのひとつが刀鍛冶のシーンです。それから、台湾の人が、自分の肉親が祀られていることに対して怒るシーンと、殴られる青年。こちらにいろいろな思いを引き起こしてくれるのは、「記号」としての映像ではなく、まさに個を追っているシーンなのです。そう考えると、「記号としてやりたかった」という監督の言葉を作品が裏切っているというか、「違うじゃない」というのが私の印象。

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