「おいしい生活」の現実

前から思ってたけど、ツツミさんて、ミチコKOGOに似てない?

叙情と闘争―辻井喬+堤清二回顧録

叙情と闘争―辻井喬+堤清二回顧録

躍らせた側のさっくりした分析
[「おいしい生活」もビックリな箇所をデカ字にしてみた]

 このように見てくると、80年代のビジネスマンとしての僕の動きはかなり分裂し、矛盾に満ちている。それはなぜだったろう、と自分のことながら考えざるを得ない。
 おそらく消費社会が、真に年月をかけた富裕な層が極めて少ないという底の浅さと、大きく残されている非近代的な生活習慣、消費意識とによって、成立すると同時に崩壊と堕落に向かう兆候を見せていたこと、流通小売産業がやがて斜陽に向かうことが予感されてしまうという危機感が、僕を背後から突き動かしていたと思う。

共産主義に失望して文化活動
[著者は、面従腹背の共産圏の人々に、父の下で同様な状態にあった自分をだぶらせたりも]

「叙情と闘争」を書いていて、かつては僕をとことんまで追い詰めた理想主義はどこへ行ってしまったのだろう、と思う場合があった。率直に言うと、僕は自由市場経済に一度も理想社会を夢みたことがない。時系列で追ってみると、ソビエトロシアが独裁官僚社会であることを知るにつれて、文化的な活動に力が入っていったことが分かるから、消えた理想の替わりに、文化芸術を求める気持ちが強くなったのかもしれない。

1961年、二冊目の詩集で室生犀星詩人賞受賞
[大学生の時、新日本文学でバイトをして、編集長の中野の助手だった]

[授賞式には]室生犀星中野重治佐多稲子堀辰雄夫人といった人たちが並んでいた。
 賞状は室生犀星の直筆で、「詩集『異邦人』右第二回犀星賞としてこれをおくります」と書かれ、次に「金 弐万五千円」という字が並んでいた。金額が半端なのは富岡多恵子が同時に受賞したので、二人で分けたからだ。中野重治は部屋に入ってきた僕の顔を見て、
 「なんだ、君か」
 と言ってから、冗談をロにする時に言う前から自分の方がおかしいと思っている、少しくしゃくしゃな顔になって、
 「金持ちに賞を出すんじゃなかったな」
 とニヤリとした。彼はそんなふうに僕を揶揄することで会全体を楽しんだのであったろう。犀星の顔は黒ずんでいた。[翌年死去]

相続税

[父の葬儀後の幹部会]
「事実上相続税は零ということですな」
 と最後に長女の夫で西武鉄道の社長だった男が締め括った。その言葉で会が解散になる空気になったので僕は待ったを掛けた。
「これは世間で注目していることでもありますから、果たして相続税零で通じるでしょうか。[明日総理に会ってからにしてくれと提案]
(略)
 翌日、池田勇人総理の私邸に行ってお礼を言い幹部会の結論を報告すると、彼は言下に、
 「清二君、それは無理だよ、いくら理屈の辻棲が合っていても、非常識はいかん」
 と言い、僕は、
 「分かりました、私もそう思います」
 と応答した。前日に続いて開かれた火曜会で総理の意見を報告すると、皆の間に沈黙が拡がった。
(略)
「借用名義株というシステムはそのままにして、各社が弔慰金とか功労金の名前で相続対象財産を作り億単位の税金を納める方法しかないと思います」と僕は提案した。

児玉誉士夫と池袋サンシャインシティ

彼の用件は、巣鴨拘置所が取り壊される前に、一度供養に行きたいということだった。(略)「あなたが今、拘置所の移転計画にかかわっていると聞いたので」ということだった。
(略)
 さいわいその日はいい天気だった。彼は信頼していた太刀川恒夫という人に大きな花束を持たせ、自分は太い線香の束を持って車を降りてきた。彼はつかつかと何棟も並んでいる収容施設の中のある一棟の前に行き、
 「僕はここに入っていたが、東条さんたちは、そう、あの建物だった」
 と、あたりを見廻して隣の棟に向かった。
 そこに花束を置き、線香に火をつけて長い時間掌を合わせていた。(略)構内には、明治初期の、屈んでいても頭が天井にぶつかってしまう一戸建ての独房や、拷問の道具を収納した倉庫などが残っていて(略)
児玉誉士夫はゆっくり所内を巡り、絞首刑が行われた場所なども見た後で、
「今日は有り難う。これで長年胸につかえていたものがいくらか軽くなった。(略)」
 と帰っていった。
 その日僕は、彼の折り目正しい言動は、かつて拘置所に囚われていたことなどなかったかのように振る舞い、アメリカの指示に従って得意気に動き廻っている人々にとって、おそらくなにか気押されるような簡潔さであったと感じた。

戦後の躍進の要因

指導層が一斉に若返ったことがあると思う。この、「一斉に」というところが実は大切なのだ。というのは、個々の企業が若返っても、社会のシステムが若返っていないと、若さが貫徹しないからである。例えば、本田宗一郎が独創的な方向を打ち出したとしても、それを理解し、金融マンの言語に翻案し、その翻案された独創性を評価する柔軟性を持った金融機関がなければならないのである。
 言い換えれば1970年代までは、日本の経済社会には「昔のやり方では駄目だ」「経営革新こそ生きていく唯一の方向だ」という気概が満ちていたのだ。(略)
[その気概が90年代に消滅したことと]
バブルの発生とは、実は密接な関連があったのではないか

ある日曜の、妹・邦子と父の論争

「皇室は日本の神かもしれませんが、その上に本当の神がいて、地上にはその神が遣わしたイエスがいるんです」
 「何とな?」
 と言った時の父の驚きの表情が大きかったので、僕の記憶に刻まれたのであったろう。
 「するとお前は天子さんを尊敬しないのか」
 「いえ、尊敬するしないではなく、皇室伝説には信仰としての体系がないんです」
 と邦子は言い、父はいよいよ驚いて、
 「タイケイ?」
 と一語を区切った発音をした。この時、父は娘を自由学園に入れたことの失敗を覚ったのであったろう。

宮澤と竹下

竹下総理の時代、「後任には宮澤喜一を」という財界主脳の希望的意見を持って竹下事務所に出向いた時、
 「清二君が推すのは分かるがね、彼は僕に会いに来る時、いつも英語の雑誌を小脇にかかえてやってくる。僕もかつて田舎だったが中学の英語の教師をしていたからね、そんな見せびらかしはしてもらいたくないんだな」
 と言われたことがあったのを僕は覚えていた。僕は早速本人に、
「竹下さんに会う時は英文の雑誌は持っていかない方がいい」
 と意見を言った。彼は、
「僕は英語も日本語も同じなんだが」
と言い、それでも少し具合の悪そうな顔になった。