論争家ポー、シュミット再考

エドガー・アラン・ポーの世紀 生誕200周年記念必携

エドガー・アラン・ポーの世紀 生誕200周年記念必携

  • 論争家ポー/大串尚代

剽窃を指摘したら、逆に剽窃を指摘され

[1840年の]書評の後半部でロングフェローの詩「死にゆく年のための真夜中のミサ」と、アルフレッド・テニスンの詩「古き年の死」を両方引用し、「まごうことなき明らかな剽窃」「文学略奪」であると断じたのである。
(略)
[五年後]
ロングフェローが編んだ詩集アンソロジー『ウェイフ』を書評したポーが繰り広げたのは、またもロングフェロー剽窃疑惑だった。ポーは、ロングフェローがこのアンソロジーを編纂する際に、アメリカ詩人を意図的に外したのは、ロングフェローがこうした詩人の作品を模倣しているからであり、この詩集は「道徳的腐敗に冒されている」と言い切ってしまう。
 ポーが仕掛けた論争に参戦したのは、疑惑を投げかけられたロングフェロー本人ではなく「ウーティス」と名乗る人物であった。彼はふたつの詩に類似があったとしても、これまでに出版された作品をすべて網羅することなど不可能である以上、それがすなわち剽窃とはならないとし、ポーの「大鴉」と作者不詳の詩「夢の鳥」を比較した上で18ヵ所の類似点を挙げて応戦した。ウーティスに対して返答をする中で、ポーはまず剽窃とは有名な作家が無名の作家のものを盗むということ、また盗作とは類似箇所の数だけではなく、「特性」を共有しているということなどの論を経て、しだいに「詩情とは美に対する鋭い眼識であり、その詩的同一性をわがものとし、同化したいという切なる願いなのである」とする、無意識の盗作の可能性を容認するようになっていく。詩人が熱烈に賞賛することがらが、部分的にではあるものの、自身の知性を形成してしまうことを、「二次的独創性」とすることで、ポーはこの論争の幕引きとした。

付録参考資料:M・イエーニック「レヴィアタンに関する『深淵の学』」

ホッブズが究極において問題にしたのは、個人間の契約的合意でも、人格による代表でもなく、「現実の保護を現在実際に与えること」であった。しかし、このことを保障できるのは、「有効に機能する命令機構」のみである。かくして、人工の芸術作品としての国家観念の行きつくところは、人格ではなく、機械である。だから、ホッブズの構想した国家は、「技術時代の最初の作品」と見なしうる。なるほど、ホッブズにおいて、主権的―代表的人格は、人工人間として描かれた国家の「魂」ではある。しかし、これもまた、全体として機械と考えられるため、これは、この技術装置の「単なる要素」と化す。かくして、歴史の終局において、「巨人」が、主権的―代表的人格として存在し続けることは不可能である。
 国家像のこうした機械化ないし技術化(それは、究極的には、人間像の反映である)の結果が、一世紀にわたって徐々に表面化してきた国家の「中立化」なのである。これは、寛容と区別される。
(略)
 ここに至って、この思考過程の政治的―現実的核心が明白となる。すなわち、国家の行政技術上の中立性は、トーマス・ホッブズ的意味での国家の保護機能によって補完されなければならないということ、これである。個人主義的知識人は、「『懲戒』と『破門』(近代的にいえば道徳的威嚇と社会的ボイコット)を武器とする教会的・神学的権威……を免れるために世俗の権力に保護」を求めたのである。