国民国家と市民

国民国家と市民―包摂と排除の諸相

国民国家と市民―包摂と排除の諸相

  • 第三章

「セルフメイドの国民性と市民/金井光太朗」
タウンミーティングは多数決で決める場でなく、コンセンサスを確認する場であった。

社会変化が大きくなる前の18世紀初め頃までは、ミーティングは年に一回か二回開かれるくらいで、主要な議題は役職分担の割当、選出であった。タウン民の参加もそう多いものではなかった。人口の多いタウンでもせいぜい数十人で、出席率は低かった。仕事に疲れた人々がわざわざ集まってくるほどの理由は少なかったからである。(略)
 集まって話し合う場合でも、活発な議論が交わされ、ときには新機軸を決めていくことなど、基本的になかったのである。理念としてそのような事態は望ましいものとされていなかった。タウンはメンバー間の平和が大事で、深刻な緊張、対立を生じさせないようにすることが何よりも必要であった。ミーティングはタウンとして決めようとすることがメンバー誰かの利害を侵害していないか確認するための場だったのである。侵害があり反対する者があれば、それを多数決で押し切ることが許される場ではなかった。(略)
自己の利害、主張にこだわって、わがままをごり押しするようなことは慎むべきものとされていた。

指導的役職、和の社会、よそ者

投票によって指導層を選ぶとしても、共同社会のなかで財産をもって信頼を集め人の世話をやいている有力者にタウン民は敬意(deference)をはらい、順当に選出していった。(略)
開拓に忙しい人々にとってできれば引き受けたくないやっかいな負担にすぎなかった。むしろ、土地と労働力をもつ余裕ある有力者が積極的にはたすべき義務とされていた。
 和の社会、タウンを保持するために、よそ者をやたらに入れないことが肝要であった。(略)
救貧負担の問題もあって、タウン民はよそ者が流入してこないようによそ者の監視追放に努めた。見廻り役の重要な責務の一つは、タウン民の身元引受人があって滞在を許可された者以外のよそ者を見つけたら、出ていくように申し渡し、境界の外に出ていくまで見張っていることであった。

  • 第五章

市民社会と「暴力的」農民/工藤光一」
「異界」としての農村

19世紀の前半は、パリのエリート層にとって、「異界」としての農村イメージが構築された時代であった。
(略)
[バルザック『農民』(1845)の主人公は]
土地の農民に出会う。「野良着にしろズボンにしろ、どう考えたってせいぜい製紙工場の大桶にぶちこまれるのがおちの代物」である(略)
「いったいああいう人間のものの考え方や、日頃のおこないはどんなだろう。どんなことを考えているのだろう。あれでもおれの同類かしらん。お互いに共通なところといえば、わずかに姿かたちだけだが、しかもそれでいて!…」などと考えるのであった。さらに彼は、眼前の農民に「未開人」の姿を見て取り、こう考える。「こいつはフェニモア・クーパーの小説にでてくる赤色人だ。未開人を観察しに、アメリカくんだりまで行く必要はないな」。(略)
 この「異界」はまた、不可解であるばかりでなく、恐怖を覚えさせる空間でもあった。19世紀前半は、資本主義が進展するにつれて、共同体的諸権利や森林用益権といった、農民にとって古くからの慣習であり、かつ生計を維持するうえで重要な諸権利が侵害される事態が相次いだ。これに対して、農民たちは、共同地騒擾、森林騒擾などの実力行動にでた(略)
エリート層一般には、貧困ゆえに鬱積した不満が爆発し、異議申し立ての行動に至るのだとみなされ、農村については、「欲動と情熱がときどき騒々しく表出する、闇に包まれた危険な世界というイメージ」が生産されるようになった。

「農民」への恐怖

「獣人」としての「農民」への恐怖が大きく膨張するのは1851年である。翌年に総選挙と大統領選挙を控え(略)
52年社会革命は、当時の多くの人々にとって、きわめて可能性のあるものと信じられていた。(略)
所有者層がもっとも恐れたのは、都市の労働者層の蜂起ではなく、極左勢力の最大支持層となった農民の集団決起であり、彼らはこれを中世の農民戦争になぞらえて「ジャックリー」と呼んだ。「ジャックリー」への恐怖とは、単に財産や地位の喪失への恐怖のみならず、いまだ文明化されざるものによって文明世界が蹂躙される恐怖でもあった。

翌年を待たず、51年に農民蜂起。
以下のような、つくり話・伝聞が恐怖を煽った

[蜂起民は]この町でもっとも美しくもっとも若い38人の婦人や娘たちに全裸で給仕をするよう強制しました。これらの哀れな女性たちは、公共の広場において公衆の面前で、強姦されました。聖職者たちは、柱に縛りつけられ、この破廉恥な饗宴を目にしていなければならなかったのです

卑劣な勝利に酔いしれたこの名もなき群集は、彼らの戦利品へと殺到した。つまり、死体へとだ!(略)
地獄の輪舞で自分たちの勝利を祝った。彼らはオセアニアの食人種のように踊った。次いで、祭りの日に祝い火の周りでファランドールを踊るように、彼らは、血が流れ蒼白となった死体へとかわるがわる飛びかかっては踏みつけにした。それも、せせら笑い、いやらしい嘲り言葉を交わしながらだ。

「農民市民」の形成

[1880〜1885年を転換期として]
農民がいまや共和国の存立を支えるにふさわしい存在となったとみた穏健共和派は、自らに有利に働くことを狙いとして、新たな農民像を生み出した。かつては、「孤立し、宗教に捕らわれ、無知で、暴力的で、未開人に近い」農民像が支配的であったが、19世紀末になって穏健共和派が掲げたのは、「温和で、読み書きができ、世俗化され、愛国的な共和主義者で、急進的な労働者階級に対してフランスの価値を守る」農民像であった。
(略)
[農民側も]選挙の場では、「暴力的」実力行使はおこなわないという市民的規範を受け入れつつ、穏健共和派の議員を選出することによって、国家資源(道路、鉄道、橋など)の有利な配分を求めた。つまり農民は市民としての規範に則った態度をとることによって、共和派に自己主張をおこなった。ジェイムズ・R・レーニングは、ここに「農民市民」の形成をみる。(略)
 レーニングの指摘でいま一つ押さえておきたいのは、共和政が農民の支持を確保するにあたって、農民としてのアイデンティティを解体せぬように留意するようになったということである。

  • 第八章

「「寛容と排除」の自然保護活動/古川高子」
登山でリベラル、公共善を旗印に地元民を排除

 19世紀半ばの市民社会において、登山は喧噪の都市から離れて静寂な山中に入り、自然の壮大さに触れ、人間の肉体的限界を認識できる文化的実践の一つ、自立的個人の人格形成において人間性を高め、心身を鍛える陶冶、いわばリベラル育成の一手段だとみなされていた。また、登山活動に必要な登山道や避難小屋の設置、救援活動などには資金や人数の面で協力が必要だったため諸ツーリスト協会が設立された。その際、リベラルの登山家たちは、ツーリズムの促進が、貧しいアルプス山岳地方の住民の経済的・文化的発展につながる公共善だと主張し、協会設立を正当化した。だが、彼らが道路を造り、避難小屋を建てる場所は、地元の経済発展を考慮して選定されていたわけではなく、あくまで登山活動のためのものであった。それがあたかも普遍的な行為であり、アルプス地域全体の経済開発や公共善に役立つものであるかのような説明がなされたのである。(略)
地元民をもその傘下に繰り入れる寛容な言説とは裏腹に、現地では、観光促進のため、市街美化と称して、街の通りでの枯木収集や市域での牛馬への鞭打ち、水飲み場設置の禁止令が出されるなど、住民のそれまでの日常生活は破壊されていた。ツーリズムという「普遍的行為」に参与できない、あるいは参与しようとしない人々はそこから排除されたのであった。

「森泥棒」創出

[ハプスブルク帝国、1852年、帝国森林法他により]
それまで農民が保有していた森林伐採・落葉取得権や放牧権、貧農層の木端・枝葉拾いといった領主保護権に基づく森林利用の権利は失われた。以後、それらを行使すると、犯罪として罰せられた。ここに「森泥棒」が創出されたのである。自由主義的経済政策下において山林は、資本家の利益の源泉であり、農民による森林利用は経営上の妨げだとみなされたのであった。

自然保護派の傲慢

[森を経済財としてのみ扱う資本家に対抗して]
林保護を主張した人々は、その保護活動により、樵の生活が脅かされることについては無頓着であった。都市民や貴族に提供される自然環境・狩猟用の森林空間が公共善として正当化される一方で、そこから生きるための糧を得ていた人々の生活は無視されたのである。

原初的な生態系を保存するという本来の自然保護の観点からすれば、そもそも山林のなかに人が通る道をつくる、という行為自体が自然破壊のはずである。しかし、彼らはそのようには考えず、狩猟をおこなうために森や放牧地を買う行為こそ、文化を野生へと逆戻りさせるものであり、ツーリズムによるこうした自然開発こそが自然保護だと訴えた。彼らが求めていたのは、山林を通り、開墾されたアルムで牛に草を食ませる文化的自然景観だったのである。それゆえ、そのような景色をつくりあげるのに必要な放牧農に対しては憐憫と親愛の情をかけるが、山野を荒らす狩猟に携わる勢子や樵が、冬のあいだ、職を失う建築労働者の臨時雇いである可能性についてはほとんど考えられていなかった。

「自然の友」は大気を汚染する工場建設や景観を破壊する岩石採掘には反対し、ツーリズム振興に欠かせない鉄道・道路他の建設には賛成した。生活のために高山植物を採取していた「花売り女」たちを、文化的なものが理解できない公共善の低い「森泥棒」として扱った。