後藤新平と日露関係史

後藤新平と日露関係史

後藤新平と日露関係史

ロシアへの満鉄用レール発注

[ロシア大蔵省駐日特別顧問(代表)グリゴリー・ヴィレンキンの上司への報告・1907.10.15]
 ロシアの対日輸出の増進のためには、今が絶好の好機です。(略)私が第一に選ぶのが後藤男爵です。…彼は、満鉄の総裁に任命されて以来、あらゆる機会を使って、われわれにたいする好意をしめし続けています。(略)
後藤男爵自身がロシアの工場を自分の眼で御覧になって、もし条件が整えば、ロシアの工場にたいし満鉄および日本の官営鉄道のレールの注文を出すためであります。後藤男爵は私にたいして、自分のロシア到着まではできるだけ秘密裏にしておいて欲しいと言われました。というのは、外国のマスコミが知ることを恐れているからです。後藤男爵は明らかに英国のマスコミや工場主たちからの攻撃を恐れているのです。

[ロシア駐日公使バフメーチェフ書簡・1907.11.15]
英国は日本の同盟国である以上、全ての注文を独占する権利をもち、極端なことをいえば英国の同意なしに他国に発注することなどは許されないと考えていたのですが。
 イギリスは、1902年、日本と同盟を「結んでやった」のだから、自分たちにたいする通知や了解なしに日本は何事もしてはならない。いわんや、国家発注でロシアを選ぶことなどはあり得ないと考えていた。
(略)
 書簡の次の結びの部分は、注目に値する。「日本も、また日本と関係をもつすべての人々も、長らくの間後藤を重視せねばならないであろうと思います。後藤新平は、日本を代表する為政者である伊藤公爵が突然この世を去った今、その親露政策の精神的継承者となることを志したからです」。この点についての公使の後藤評価は、無条件に正しかった。だが、伊藤はあまりにも突然にこの世を去った。だから、後藤はしばらくの間、桂の「右腕」としての役割に甘んじなければならなかった。

日英同盟

1915年末から、日本の新聞に新しい重要な傾向が形成されはじめた。すなわち、日英同盟を「異常な」「不平等で」「一方的な」ものとみなして、日英同盟に反対する積極的かつ広汎なキャンペーンが開始されたのである。(略)
中国における鉄道建設問題やオーストラリアヘの日本人移民問題のゆえに、日英関係は悪化した。東京・ロンドン同盟は、「親近感の心情の時代から、切迫した紛争」へと変化を遂げていた。
(略)
参謀本部の「花形」陸軍少佐、田中義一は、1914年2月に記した。「英露の直接握手を見たる暁においては、日英同盟のごとき是れまったく死物のみ」。

連合国側に立つも、近代化におけるドイツへの恩顧の念はエリート層に強かった

 ヨーロッパにおける戦時状態が長引く様相を見せはじめた1916年、ドイツの勝利は可能なシナリオのひとつとみなされた。というのは、アメリカが公然とかつこれみよがしに、戦線から離脱したからであった。(略)
東京の支配エリー卜層の若干の代表者たちは、対独戦勝国側からの自国の立場への脅威をいかに除去し、しかし、ドイツとの友好関係をいかにして修復するか――このことについて熟考しはじめていた。(略)
日英同盟こそが、日本を世界大戦へと「巻き込んだ」主たる原因であると見なされはじめていた。

英国の衰退

 後藤の考えによれば、日英同盟に反対する補足的な論拠は、イギリス帝国もまた、西洋側文明同様に、凋落しはじめているというものであった。戦争の真最中に書かれた『日本膨張論』と題する著作のなかで、彼は次のように主張した。(略)
「私には見えるのだ。現在、イギリスは、自己の世界的膨張においてその極限に達している。人口、富の規模、政治的権威、その国内発展度合いからみて、納得できる事実である。その一方で、世界を支配するという偉大な文化的使命は終焉に向かっている。まさに熟し過ぎた爛熟に似た状態である。すなわち、イギリスはすでに最盛期を過ぎ、運命は晩年へと傾きかけているのだ」。
(略)
彼の基本的な考えは、世界政治の指導者イギリスが弱体化するなかで、列強諸国間の対立を利用しながら、日本を自立した「プレーヤー」に育てあげてゆくことであった。
(略)
その潜在的同盟国として、ロシア、中国、ドイツの可能性が研究された。「外国列強との協力、とくに中国やロシアとの精神的、政治的連合は、明らかに十分に緊密なものとなっていない」がゆえに、日本は国際的孤立化の危険にさらされながら、イギリスやアメリカの言うなりになることを余儀なくされてきた。いいかえるならば、後藤は、英国にたいする過剰な依存が常に世界的孤立の悪夢をもたらす。一方、孤立の恐怖が外交的機動性を制約し、英国に対する依存の強化に導く。この「悪循環」を打破しようとした。

後藤・スターリン会談

ゲンナジー・ボルジュゴフは次のように記した。
 日本の客人との会談は、後藤にとってばかりでなく、書記長のためにも大きな意義をもった。(略)
[1927年12月−1928年1月という時期]
スターリン政権は不安定で、非常措置をとらなければならず、ついにネップ(新経済政策)が崩れて、ロシアでも外国でもソヴィエト権力は余命いくばくもない、多くの人々がこう考えるようになっていた。そこに突然、権力と権威を示せる絶好の機会が現れた。日本の名士と会い、しかるべく新聞に発表できるという好機に恵まれた。
(略)
[八杉貞利による会談メモより]
後藤はのべた。「中国は混乱しており、このまま放置すれば両国にとってきわめて危険である」。スターリンは答えた。「中国問題の解決を困難にしている三つの原因がある。第一は、現在の中国に統一政権がないこと。第二は、外国列強が中国の政情や地域の特性も知らず、理解もせずに内政干渉をおこなっていること。第三は、外国からの絶え間ない圧迫欺瞞に慣れて、中国では外国の政策に猜疑心をつのらせ、孤立主義が蔓延していること」。
後藤はスターリンに同意し、ソ連、日本、可能ならば中国が三国協商を形成して東洋の平和の維持に努めるべきであるとの持論に言及した。スターリンは聞き返した。「ロシアは日本と相談しなければ、中国では何もしてはならないのか。それか日本の希望なのか」。後藤は、急いで「そうではない」と否定した。ただ両国の足並みをそろえた行動が平和の維持と安定の保障になるであろうと確信する、とのべた。スターリンは、中国問題での両国の協商の考えには基本的に反対せずに、協商が成功するには何が必要と思うかと、後藤に訊いた。
 後藤は答えた。「日本の外交は今まで著しく米英におもねる姿勢をとってきたが、独立した外交政策をもつ必要に迫られている。ロシアと中国と握手することが、そのような独立外交の端緒となると思われる」と。そして、後藤は再びコミンテルンの活動から生じるかもしれない中国の「赤化」の話をはじめた。その際、第三インターナショナルとソヴィエト政府との間の違いを自分は理解しているがと丁重に断ったうえで、自分自身はコミンテルンを恐れていないものの、日本人の多くは恐れているとつけくわえた。
 スターリンはのべた。「中国の争乱の主因は、抑圧者にたいする被抑圧階級の烈しい闘争である。このような情勢下では、共産主義思想が流布することは不可避であろう。不安定が存在するところに、コミンテルンは成立する。そしてすでに成立して九年間が過ぎた」。スターリンは、ソヴィエト政府とコミンテルンの関係に話を移して、多少皮肉をこめてのべた。「外国のある者は政府がコミンテルンを指導し、ある者はコミンテルンが政府を指導していると言っているが、いずれも正しくない。コミンテルンは国際的な政治機関で、多くの国々を網羅しているからだ」。