柄谷行人 政治を語る―シリーズ/六〇年代・七〇年代を検証する〈1〉 (シリーズ/六〇年代・七〇年代を検証する 1)
- 作者: 柄谷行人,小嵐九八郎
- 出版社/メーカー: 図書新聞
- 発売日: 2009/04
- メディア: 単行本
- 購入: 8人 クリック: 48回
- この商品を含むブログ (20件) を見る
[試験のために読んだ]鈴木鴻一郎の『経済学原理』で、はじめてその体系性がわかったのです。
ふつう『資本論』というと、第一巻・第二巻しか読まないですね。ルカーチもアルチュセールも、第三巻を読んでいない。少なくとも精読していないということは明らかです。じつは僕もそうだった。試験があるから、精読してはじめて『資本論』が体系的な著作であることに気づいたのです。
第三巻は信用過程を論じています。第一巻・第二巻しか読まないと、『資本論』が、資本主義経済が「信用の体系」だということを論じていることがわからないのです。ふつうは、第一巻を読んで、資本は労働者から剰余価値を搾取しているというようなことで、資本主義を理解する。そして、マルクスはそういうことを書いているのだと思う。しかし、その程度のことなら、マルクス以前のリカード左派の人たちが書いています。彼らは「搾取」や「賃金奴隷」という言葉も使っていた。マルクスの独自性は、そういうところにはないのです。
(略)
たとえば、ある商品が、実際に売れるまで待っていたのでは、つぎの生産ができない。だから、売れたことにして、事を進める。その時に、手形が使われます。これが信用です。
信用によって、交換が増大し拡大する、だから、資本主義経済は、根本的に信用にもとづくのです。資本主義経済は、無数の信用の関係の網目からできている。そこに、いったんほころびができると、がたがたになる。それが「危機」(恐慌)です。信用にもとづくヴァーチャルな世界が壊れるからです。もっとも、これによって資本主義が崩壊するわけではない。不況になるだけです。その間に不良企業が淘汰される。そして、徐々に好況に向かう。
社会主義は、倫理的な問題だ
一般にマルクス主義者は、恐慌は資本主義の崩壊、社会主義の到来をもたらすと考えますが、宇野弘蔵はちがった。彼は、『資本論』に書かれているのは、恐慌の必然性である、しかし、それは革命の必然性や社会主義の必然性ではないのだ、といったわけです。資本主義は、「労働力商品」という特殊な商品にもとづくので、恐慌や不況を避けることができない。しかし、宇野は、資本主義経済から社会主義が必然的に出てくるものではない、と考えた。社会主義は、倫理的な問題だ。つまり、各人の自由な選択の問題だ、と。
僕は、社会主義が実践的(倫理的)な問題だ、という宇野の考えに影響を受けましたね。それをずっと考えてきた。宇野の考えはマルクスというより、カントから来ていると僕は思う。そのことに気づいたのはだいぶあとで、僕が『トランスクリティーク――カントとマルクス』を書きはじめた1990年ごろですね。
(略)
[宇野の『経済原論』は必須科目、左翼でない者もそれを学んで、官庁や大企業に行った]
宇野がいったのは、君らは何をしてもよい、しかし、資本主義には根本的な弱点がある、恐慌は不可避的だ、それを覚えておけ、ということです。宇野経済学を学んだ官僚や企業幹部が、その後それをどう活かしたかは知りませんけど、市場経済万能論を学んだ人たちよりはましでしょうね。いまのように恐慌が起こると、途端にうろたえ、資本主義が終わる、なんていって騒ぐ人がいますが、資本主義が自動的に終わることはない。国家と資本は何をしてでも生き延びようとしますから。
[関連記事]
kingfish.hatenablog.com