ペンタゴンのフィッツジェラルド

前日のつづき。

戦争の家―ペンタゴン〈上巻〉

戦争の家―ペンタゴン〈上巻〉

ジェームズ・フォレスタルと「ギャツビー」

フォレスタルはニューヨークの北で暮らす、[アイルランド移民の]質素な家庭に生まれた。(略)母親は息子がカトリックの神父になることを願った。
 フォレスタルはダートマスからプリンストン大学に転学した。プリンストンでの学生時代、フォレスタルは自分のことを「アイルランド野郎(ミッキー)」と呼んでいた。プリンストンというエリート大学に、貧困の中から独力で這い上がって来た、叩き上げの人間のような雰囲気を自ら漂わせていたという。(略)
[プリンストン同期のフィッツジェラルドの「ギャツビー」に]
フォレスタルはよく擬されたものだ。封じ込めた身体パワー、承認を求める憧れ、ギャングっぽさ、といった雰囲気が似ていたからだ。(略)
フォレスタルにはギャツビー同様、心の中に広がる不安を、薄いビニールで覆い隠すようなところがあった。「野心にあふれた成り上がり者の余裕のなさ」とは、友人の一人のフォレスタル評である。
(略)
[「将来、最も有望」とされるも、卒業直前、学位を取得しないまま、ドロップアウト第一次世界大戦終戦間際、海軍で短期間軍務に。戦後、ウォールストリートで大成功。1930年代終わりには投資会社社長に昇進。フィッツジェラルドゼルダがいたように]
ジョセフィン・オグデンという、自立心に富んだ奔放な女性に夢中になった。彼女は『ヴォーグ』誌のコラムニストで、元々はブロードウェー(略)コーラスガールをしていた。(略)
[フォレスタルが社長になるころには]
貴族のような態度で、あでやかに振る舞うようになっていた。彼女はフォレスタルの本格的なデビューを飾る紋章のような存在だった。そして彼女はアルコール中毒者でもあった。
[1940年フォレスタルは海軍次官に。妻は統合失調症に]
ジョセフィンは政治に無関心な社交界の花だった。が、彼女の病的な妄想は、共産主義者への恐怖となって現れた。「赤」に追われている、「赤」が自分たちを追いかけて来る……(略)
 治療と薬の投与で、ジョセフィンは生活に復帰したが、飲酒はさらに悪化し、ワシントン社交界の格好のゴシップとなった。

海軍という栄誉

 フォレスタルが海軍に惹かれたのは、移民の子なら誰もが抱く、飽くなき社会的野心の発露として理解することができる。英米の支配層にとって「海軍」は、植民地時代から、軍人の理想だった。それは金持ち特権層のヨットと同じくらい、手に入れることのできない憧れだった。海軍は、陸軍が騎兵隊精神を持った南部の紳士たちに占領されたように、米国北東部のプロテスタント上層階級用のもの。だからフォレスタルのようなアイルランド系の、カトリックの成り上がり者にとって、その海軍に入ることは出世の突破口だった。

「国家安全保障」

アメリカの戦後の政策的な議論の中に、「国家安全保障」という考え方を持ち込んだ男こそ、海軍長官と国防長官を歴任したフォレスタルだった。(略)
 この「国家安全保障ドクトリン」により、アメリカの戦後は変質した、とヤーギンは指摘しているのだ。「アメリカは永遠に戦争準備をし続けなければならなくなった。アメリカの利益、アメリカの責任は、際限のないグローバルなものに変わった。国家安全保障は指導的なルールになり、軍を動かす考え方となった。それは新しい毒を含んだ考え方の中心を占めるに至った」(略)
[フォレスタル]のストレスとなったのは、米国は世界中で軍事的な関与を迫られているのに、軍の力がそれに追いついていない、という一貫した思い込みだった。(略)
[やがて彼は対ソ対決を力強く正当化する無名の外交官、ジョージ・ケナンに肩入れするように]

ジョージ・ケナン

フォレスタルが「ギャツビー」に比較されたように、ケナンは自分のことを、『楽園のこちら側』というフィッツジェラルドの小説の、大学生の主人公、「アモリー・ブレーン」に重ね合わせていた。
 ケナンは中西部の中流階級の家の出。そんなケナンの神経を、東部の支配層が漂わせる何かが不安にさせていた。母親は彼を産んで間もなく死亡。父親は、取り付くシマのない人だった。
 ケナンもまたフォレスタルのように、孤独と怒りを押し殺しながら、特権層が自分を排除するのは、彼らが自分よりも上の人間だからだ、と自分に言い聞かせて生きていた。いつか自分もそうした特権層の人間になってやる――ケナンはそんな野心を燃やしながら生きていたのだ。

ピウス12世

後にローマ法王、ピウス12世となるエウジェニオ・パチェッリがまだバチカンの外交責任者としてドイツにいた1920年代のことだが、ミュンヘンで彼は、ソ連を支持するドイツのボリシェヴィキたちから暴行を加えられたことがある。ピウス12世の共産主義に対する激しい憎悪は、だから、きわめて個人的なものでもあった。
 さて、私の両親は極端に敬虔なカトリック信者ではなかったが、ジョン・ケネディがまだ現れていない、この世代のアイルランドアメリカ人にとって、ローマ法王の存在は自分たちのアイデンティティーの拠り所たった。禁欲的な表情と、メガネのレンズの輝きを映したピウス12世の肖像写真は、我が家の玄関の内側に飾られ、バチカンの月刊誌、『法王は語る』はいつも、家のコーヒーテーブルの上に乗っていたものだ。(略)
 世界中のカトリック教会で、ミサの終わりに、ロシア人の共産主義からの「改宗」への祈りが行われるようになった。そして1949年、ピウス12世は遂に、地上の共産主義者の全員を破門する教令に、飾り文字で署名することになる。ナチスや、ヒトラー個人に対しても行わなかったことをやってのけたのだ。

ドーリットル

 私は「家」に遊びに行って、父にドーリットルを紹介された。その時、二人があまりに親密だったので、私は驚いたものだ。もうひとつ、私が驚いたのは、ドーリットルが背の低い人だったことである。私はそれをこの人の名前と関係あるのかな、と思ったものだ。
 はげ頭の小柄な体躯だが、輝くばかりの個性の持ち主。私は、ああ、この人はいい人なんだ、と思ったことを今でも億えている。(略)
 ドーリットルとは言うまでもなく、1942年の東京空襲の指揮官である。(略)
[アイゼンハワーへの報告で]
もし、米国が生き残りを図るなら、長年にわたり培って来た『フェアプレー』の概念も再考しなければならない。われわれは効果的な諜報・反諜報活動の機関を創出し、われわれに敵対する者以上に、より賢く巧妙な、より効果的な手段で相手を倒し、妨害し、破壊することを学ばなければならない。

トップ・ハット作戦

アメリカの誇る強力な戦略空軍が、大学の寮生のイタズラとたいして変わらないような奇襲部隊の急襲で無力化される、という事実だった。(略)
父はOSIエージェントによる小隊を自ら指揮し、「戦略空軍司令部(SAC)」の基地に対する一連の模擬破壊活動を行った。地上の攻撃部隊を無力化する敵の策動を、SACがどれだけ跳ね返すことができるか、実地にテストするのが狙いだった。(略)
厳重に警戒された爆撃機の駐機ゾーンに忍び込み、巨大な機体の底に模擬爆発物を装着した。エージェントたちは「キルロイ、参上」の代わりに、「一鳥、上がり」とイタズラ書きを残した。
 こうしたOSIの「脆さテスト」が最初に行われたのは、日本にあるSACの基地に対してだった。(略)
[米大陸13箇所の基地に無許可着陸した]
エージェントたちは先端の尖った三本足の鋼鉄製のスパイクを数十個、滑走路上に投下し、SACが誇る無敵のB52爆撃隊を離陸不能に追い込んだ。滑走路の障害物を除去し終えた頃には、ソ連機の攻撃で基地は壊滅している……そんな想定だった。(略)
[たったの100人の]エージェントが、わずか数時間でSACの爆撃隊を、無能化しないまでもその出撃に足止めをかけることができることを実地に証明したのである。(略)
「報復攻撃」は、実は絵空事だった。SACの爆撃隊は出撃に手間取っているうちに、地上で「撃破」されてしまう。(略)
「トップ・ハット作戦」は最終的に、「報復」ではなく、やはり「先制攻撃」を考えなければ、との思いを、かつてないほど強くルメイに抱かせることになった。

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