戦争の家-ペンタゴン

この本では「家」と書いて「ペンタゴン」と読む。

著者の父は貧困家庭に育つも成績優秀でカトリック教会エリートコースを進むも神学校をドロップアウト

サウスサイドのアイルランド人社会から張られたレッテルは、「なりそこね神父」だった。家族の名に泥を塗り、教会の先輩たちの怒りを買った。(略)
 教会での出世のチャンスを棒に振ったわが父、ジョー・キャロルにとって、配管工になる日を夢見て惨めな家畜置場で働き続け、大酒を飲んでしまいにはダメになるのが、彼の辿るべき、普通の人生コースのはずだった。
[妻の勧めで「電車夜学校」入学、学位取得、司法試験合格、そして六年後、FBI、さらに八年後、空軍で最も若い将軍に大抜擢](略)
「家」の廊下ですれ違う同僚の胸には、彼らがドイツや太平洋戦域の上空で敵の対空砲火を潜り抜けて手にした[勲章](略)
[勲章のない] 制服姿は、「家」の中で父親だけだった。だから誰もが、父の制服の胸に視線を走らせていた。私の父は、上空から150万人もの人々を殺戮した空爆にも参加したことがなかった。そんな父を、ルメイやその仲間たちが蔑まないはずがなかった。

非戦闘員空爆を躊躇していたチャーチルだったが、ロンドン空爆で敵を「絶滅」すると言うようになる。

カサブランカ会談で米側は、「地域爆撃」と呼ばれる、英国の全面空爆戦略の中に取り込まれたくない、との態度を取っていた。米陸軍航空隊(AAF)の首脳部は皆、無差別爆撃の残酷さを知っていたから、道徳的な言葉遣いをして、賛成しようとはしなかった。そんな首脳部の尻込みを、ルメイはこう言って斬り捨てた。「われわれの爆撃の〈道徳性〉を懸念する、だって?……このバカどもが」。
 カサブランカ会談で米側は、夜陰に紛れた空爆を慣行とする英国に反対し、昼間の空襲による「精密爆撃」こそ現実的なものだと主張した。

カーチス・ルメイ

人を嘲笑するようなルメイの表情は、実は軽い顔面麻疹のせいで、葉巻をくわえるのはそれをごまかすためのものだった。ルメイはまた、彼を知らない者が思うような、粗暴な男でもなかった。人生に成功することのなかった両親の間に生まれ、貧困の中で根無し草のように育った。鉄鋼労働者として働き、苦学してオハイオ州立大学を出た。

ルメイの最初の空爆指揮

は前年、1942年11月、ドイツ占頷下のフランスに対して行われたものだった。ルメイは、回避行動は絶対許さないと部下に厳命し、出撃した。攻撃目標の鉄道操車場まで一直線に飛行し、二万フィートよりも低空で侵入、爆撃照準を妨げる雲海の下に出て爆撃する、というものだった。
 これは上空に留まり、ジグザグ飛行でドイツの対空砲火や戦闘機の迎撃をかわす、英空軍、長年の伝統からの決別だった。

B17爆撃機空爆攻撃は今や、最良の環境下でも悪夢の経験となった。密集編隊を組んで、ほとんど必ず待ち受けている、対空砲火の「箱」をくぐり抜けるという最大の危機に直面しなければならなかった。(略)
[銃座からの外気で機内は]零下30度、40度の寒さになった。搭乗員は電熱線の入った羊毛の飛行服を着用していたが、電熱が通らないこともしばしばだった。「凍傷にやられてしまう搭乗員の方が、戦闘で負傷する者よりも多かった」(略)呼吸によって[酸素マスク]管の中に湿気がたまり、寒さで凍ってしまうこともあった。そうなると、B17機の操縦士は、搭乗員の視覚喪失や窒息の危険をよそに飛び続けるか、編隊を離れ、低空へ降下するしかなかった。

ロバート・マクナマラ

ハーバードで統計分析を教えていた若きロバート・マクナマラは1943年冬ルメイの部下に。高い攻撃中止帰投率の原因が「恐怖」にあると分析。そこでルメイは、私が先陣を切る、離脱したものは軍事裁判にかけると宣言。
1943年8月ドイツ深奥部メッサーシュミット製造工場をB17・146機が空爆

この作戦でもルメイは先頭の隊長機の操縦悍を握り、B17の編隊は対空砲火の果てなき爆雲の中を突っ込んで行った。(略)メッサーシュミットは自分たちを産み出した工場を、まるで自分たちの揺り籠のように守り抜こうと、B17の編隊に襲いかかり、146機中24機の撃墜に成功した。(略)
 僚機が撃墜されるたびに編隊を組み直し、目標に向かって飛行を続けた。白昼、回避行動をとらずに飛行して来たため、B17機のほとんどが爆弾を投下するまでに被弾する、すさまじい爆撃行となった。(略)
エ場に直撃弾を数発、命中させることに成功した。「それは第二次世界大戦で最も精度の高い爆撃となった」
 ルメイはそのまま生き残りの爆撃機を率い、ヨーロッパ大陸を縦断、北アフリカに降り立った。ルメイ自身、作戦を振り返り、動揺したはずだ。軍医将校たちは爆撃行の中で搭乗員らが被った心のトラウマを、こんなふうに表現した。それはまるで「さまざまな戦術理論や汚れきったスローガン、そして苛酷な損害予想の影に覆われた、心の中の荒地を彷徨う」ようなものだった、と。

しかし都市部への爆撃は、それにより職場なくした者達が軍事工場で働くようになり軍事産業を強化。空爆の恐怖は逆に士気を高めることに。
 

ハンブルク空爆

[炎は800mの高さに]大気中の酸素が炎で急激に消費されて旋風が生まれ、炎をさらに呼び込んだ。人為による史上初の「火災旋風」だった。(略)
 空爆の大半は、夜、行われた。英爆撃機焼夷弾を投下した。火災を引き起こす狙いだった。米軍の爆撃機は昼間爆撃を行い、造船所や工場を狙って爆弾を投下した。炎と煙で爆撃照準器が使えず、B17はほとんど任務を達成することができなかった。爆撃の結果を確認した米軍は、英軍爆撃機空爆結果より、自分たちの失敗に愕然としたという。
 「ハンブルク」で英米は、ともに「一線」を越えたのだった。
(略)
地上戦で行ったなら、即座に非難を浴びるような戦術が、空爆ではごくふつうのことになった。「ハンブルク」の後、民間人の犠牲者は最早、「巻き添え(コラテラル)」とは見なされなくなった。戦果の実数にカウントされるようになった。シェリーが指摘するように、当時はまだ米軍の司令官の間に、民間人を意図的に標的とすることを「人殺し(マーダー)」と呼ぶ言い方も残っていたが、「それを境に、正当化できる殺人(ホミサイド)と考える」ようになった。

仏・ロワイヨンを終戦間際、支給されていたナパーム弾を消化するために1200機で爆撃

核爆弾

最初の核爆実験「トリニティ=三位一体」の現場にいたフィリップ・モリソン談

「衝撃的だったのは、見たもの、ではなく、その熱だった。音も到達まで一分間かかった。だから、音も聞こえなかった。熱だった。それもその瞬間に感じた熱……。夏の夜明けのような、曙のような……。太陽の最初の曙光のように感じた。その爆発から二分、三分もしないうちに、昇ったのだ、そう、こんどはほんものの太陽が……」。

復讐

「われわれは原爆を手にしていたから、使っただけのことである。われわれは真珠湾を警告なしに攻撃した者どもに対し、捕虜となった米兵を飢えさせて、殴打した者どもに対して、戦争に関する国際法規を遵守する装いさえかなぐり捨てた者どもに対して、原爆を使用したのだ。(略)」
 原爆投下を正当化した、このトルーマンのラジオ演説で、「戦争の早期終結」「米兵の生命の保全」よりも先に挙げられていた、「復讐」を示唆する言葉遣いは、米政府の原爆投下をめぐる公式説明から間もなく削除されることになった。

「束京大空襲」

は今や、アメリカ人の記憶の物置に置かれているが、当時はよく知られていた。
このニュースを、当時のアメリカ人は大喜びで歓迎したのである。(略)
 ニューヨーク・タイムズ紙は「東京大空襲」の報道で「ホロコースト」という言葉を使ったが、抗議どころか疑問を投げかけることもしていない。それはアメリカ社会のあらゆる層で当然のことと見なされた。日本の首都の人口密集地域は、空爆するのにふさわしい標的だった。

ドイツ空爆での「火災旋風」は偶然だったが、東京は意図したもの。ドイツで五年かかった破壊の二倍の規模を日本では五ヶ月で。民間人90万人殺戮。ルメイは日記に「航空戦の歴史の中で、最も破壊的な攻撃だった」と。著者に東京大空襲について問われたマクナマラは「あれは、私が咎められるべき、二つの戦争犯罪のひとつだった」と答え、ルメイが「これで戦争に負けたら、われわれは戦争犯罪人として裁かれるだろう」と語ったと証言。

明日につづく。