帝国というアナーキー

ロマンス小説/空想の領域

対スペインの合衆国参戦に人びとの支持を駆りたてるうえで、大衆ジャーナリズムには長いこと重要な役割があたえられていた。ジョゼフ・ピューリッツァーやランドルフ・ハーストらの衆俗新聞が急速に発行部数を伸ばしたのは、<キューバ解放>への支持を集め、海外遠征に同意を示し、スペイン統治下のキューバ人の処遇を激しく非難し、そして戦艦メイン号の爆沈事件にたいする愛国的な激怒を煽動したためであった。あまり知られていないのが、ギャンビーの記憶にもみられるような、この好戦的な雰囲気づくりの一因ともなった大衆小説の関与であろう。歴史ロマンスの筋書きにならって、多くのジャーナリズム的な語りは、外国の王女とその土地を専制的主君から救出する男らしいヒーローとして、アメリカを描きだした。
(略)
 血気盛んな男たちが登場する1890年代のロマンス小説に表現されているのは、遠い過去において失われたものすべてへのノスタルジアであるが、それは無限に世界が拡大されていくという、当時の欲望を投影した空想の領域が生みだしたといえる。これらの小説が差しだしているのは、大陸内の領土拡大から海外へ進出する帝国へとアメリカが移行するなかで、それがどのように認知されたのか、そして、そこにはどのような欲動があったのかを描きだす地政学的な地図であり、それは、フロンティアの終焉が告げられることによって記されている。

大陸内での領土拡大の終焉とともに、国家権力は、もはや統一国家にあらたに統合されるテリトリーの合併やそこへの定住によって測られるのではなく、むしろ、国際的市場や政治的影響といった、より巨大で触知しがたいネットワークの拡大によって判断されることになった。ハワイやフィリピンの併合でさえ、主として架空の中国市場への中間点を提供するものと評価されたのである――ちょうど、キューバカリブ海の通路となり、運河として世界的規模の海運業への扉を開く地峡となる鍵となったように。プエルトリコの「非編入領土」という曖昧な状態が、実体化と非実体化というこの緊張関係を表現したということについてはすでに検証されたが、これらの島嶼は、境界のある自然状態にもかかわらず、実質のない目的地へと向かうような、つねに膨張を続ける領土拡大への欲望を投影するものとなった。

スペインとアメリカの共謀

問題は、すでに海戦で勝利していたスペイン軍といかに善戦するのかではなく、(何年もスペイン軍と戦い、フィリピン独立を期待してアメリカ軍と協力した)アギナルドの軍隊と戦利を分かち合うことなしに、いかにマニラを単独占拠するかであった。合衆国陸軍司令部はマニラのスペイン総督府と秘密協議に入り、両軍が形式だけの戦闘を交えたのち、スペイン軍は白旗を掲げ降伏、すぐさまアメリカ軍が同盟を結んでいたフィリピン反乱軍を伴わずにマニラ市内に進駐する(ただし悪天候の時には作戦を延期する)という筋書きを用意した。ある軍事評論家が解説したように、「これほど手の込んだ舞台演出をした理由はあきらかである。反乱軍を市街から閉めだすため」であった。アメリカ軍とスペイン軍は(キューバサンティアゴ占拠においてもそうしたように)、独立のために戦うフィリピン軍を排除するために、征服と降伏が筋立てられる舞台のうえで共謀したのである。こうして合衆国の勢力が芝居化され、スペインおよび合衆国と対立するフィリピンを無力化した。ところが、結果は皮肉なことに、フィリピン軍がその芝居を本物の戦争だと「誤解」してしまい、かれらの銃声により両軍とも何発もの銃撃戦を生みだすこととなり、「マニラ戦」が予期せぬ現実となってしまったのである。

「かれらはわれわれのようではないか!」

1890年代において、帝国的主体からスペクタクルを消し去ることは、とくに革命的作用や国家的熱望の否定を意味した。合衆国は遅ればせながら、ふたつの前線上において世界の帝国がせめぎあう場に参入した。つまり、ヨーロッパの競争国と、南米・太平洋地域・中国の反植民地主義を掲げる革命的ナショナリストたちである。ロマンス小説の復活はこうした複雑な歴史的瞬間をとらえ、アメリカ独立革命期を描いた小説、つまり、反植民地的起源をもつ共和国が、いずれ帝国として誕生するだろうという考えを復活させる小説が大量に生みだされることになった。
(略)
合衆国がキューバ独立戦争に介入をする以前では、スペインにたいする反乱の支持を得るために、アメリカ人やキューバ人が利用したおもなレトリックに、アメリカ独立革命との類推がある。キューバ解放運動は、アメリカ独立革命を再現したものとして正当化され、(略)
「かれらはわれわれのようではないか!」だったのだ。しかし戦争中および戦争後まもなくアメリカがスペイン軍と手を結ぶと、このような類推はアメリカでは急速に姿を消していき、差異が強調されるようになり、「かれら」は「われわれ」のようではなく、革命が熱望するような自治など不可能だということが強硬に示されたのである。

〈南部再建〉ロマンス小説

トマス・ディクソンの『豹の斑紋――白人男性の責務をめぐるロマンス』においては、米西戦争が急場の解決に登場する神のように勃発し、主人公たちの騎士道精神に則った大活躍によって、黒人男性から白人女性が、そして黒人中心の〈南部再建〉から白人国家が救出され、ふたたび白人男性たちの心がひとつになるのだ。
(略)
 ディクソンは、米西戦争という帝国主義的な戦争をキューバ人やフィリピン人を敵にした戦いではなく、黒人帝国に〈南部〉の白人たちが立ち向かう新たなる独立戦争として捉えていた。連邦の支配から解放されると、白人たちは政治的な影響力を持った黒人たちを皆殺しにしたうえで、リンチ処刑の恐怖を利用して、残された黒人たちを南北戦争以前のような隷属状態に服させるのである。
(略)
『豹の斑紋』は、一般的な米西戦争のイメージを南北戦争の継続戦および解決策として、つまり南北戦争のしこりを解消する決戦戦闘として劇化する。