湾岸トラウマの真相、焼太り防衛省

「戦地」派遣―変わる自衛隊 (岩波新書)

「戦地」派遣―変わる自衛隊 (岩波新書)

順番をとばしてアベちゃんの棒立ち会話から。

[2007年9月首相官邸]
空自幹部「多国籍軍には月30件ぐらい航空機への攻撃が報告されています」
安倍「危ないですね」
幹部「だから自衛隊が行っているのです」
安倍「撃たれたら騒がれるでしょうね」
幹部「恐いのは「なぜそんな危険なところに行ってるんだ」という声が上がることです」
 政府の決定通りの活動を続け、政治家に知らんぷりされては、屋根に上がってはしごを外されるのに等しい。安倍氏は答えた。「ああ、それなら大丈夫です。安全でないことは小泉首相も国会で答弁していますから」。

「こんな物騒な基地にはいられない」by横須賀米軍

[9.11直後、羽田発着旅客機がコワイと米空母四隻が横須賀から緊急避難。米軍の要請で「調査・研究」として海自二隻が護衛。]
「根拠があいまいすぎる」と渋る背広組の内局を、海幕が「日米同盟が崩壊してもいいのか」と説き伏せた。(略)
[だが誤算もあった]自民党の一部から「海自は調子に乗っている」と批判の声が上がったからだ。空母護衛という異常事態を海幕が勝手に決めていいはずがなかった。(略)
[しっぺ返しで自民党イージス艦派遣を中止]
2001年11月8日、インド洋へ向けてイージス護衛艦を除く艦艇五隻が日本を出発した、この時点ではまだテロ特措法は国会審議中である。派遣の根拠法は空母護衛と同じ、防衛庁設置法の「調査・研究」。(略)
 小泉首相が発表した七項目の緊急対応措置にも海幕の“影”がみえる。(略)防衛庁内局はこの七項目をまったく知らなかった。対米支援に腐心する外務省が内局に相談することなく、たたき台をつくったからだ。そして海幕は外務省と連絡をとりあっていた。
 「海幕は裏工作をしている」。内局に疑心暗鬼が生じた。のちに事務次官になった守屋武昌官房長と海幕との壮絶な冷戦に発展するのが、このインド洋派遣であった。

著者の制服組ロビー活動批判記事に幹部はこう反論

われわれが正しい情報を提供しているから、海外で一人の犠牲者も出していない。政治家に任せていたら、危険で無理な派遣が行われ、何人もの隊員が亡くなっていただろう。最初から犠牲者を想定する活動に踏み込むべきではない。

カンボジアPKOの参加経験がある幹部は

「政府が考えるのは派遣するまで。派遣後は知らんぷりだ。カンボジアでは派遣された文民警察官が殺されたが、何の見直しもなかった」と、国会を中心に高揚する海外派遣の気分に懐疑的な目を向けた。

焼け太りで、防衛「省」へ

[防衛施設庁談合事件→施設庁解体・本庁へ統合→防衛省へ昇格]
[制服組は必然性がない、内局が制服組にさらにでかい態度をとりたいだけと冷ややか]
防衛施設庁は「汚れ役」に徹し、また防衛庁は「関与しながら知らぬふり」を通すことで互いのの権益を守り続けてきたのではないか。その「不適切な関係」をぶち壊す目的ならともかく、防衛庁が施設庁解体を打ち出したのは、先述したように世間の批判をかわすと同時に省昇格につなげる“焼け太り”が狙いである。

2003年12月イラク派遣決定時、制服組は戦闘死隊員の国葬を極秘裏に検討

[陸幕長]「国が決めたイラク派遣です。隊員の死には当然、国が責任を持つべきと考えた。迎えに行くのは首相といいたいところだが、最低でも官房長官にしてもらいたい。靖国神社へ祀るか否か、それは遺族次第でしょう」
 制服組が政治家を操り、国葬を計画する。驚くべき儀式の全容だった。(略)
シビリアンコントロールの原則のもと、正面から派遣に異を唱えることができない代わりに、いざとなったら黙っていないという強烈な意志表示であった。

  • 湾岸トラウマ

クウェートの謝意広告に日本の名前がなかったのは、日本の出した金の殆どが米の戦費として使われ、クウェートにはたった0.05%(6億円)しか渡っていなかったから。ちゃんとクウェートに説明しなかった外務省のミス。「人的貢献」でなければというのは間違いと元政府高官。日本のトラウマを気にしたクウェート大使が五年後、「日本に感謝する」の文字がある湾岸戦争記念切手を手に外務省を訪問した。「勘違い」を海外派遣に利用したい外務省はその事実を伏せた。
イラク派遣先迷走

陸上自衛隊幹部は「岡本行夫首相補佐官は北部への自衛隊派遣を主張し、南部での活動を希望する防衛庁自衛隊と対立しました。主導権争いになったのです」と舞台裏を明かす。
 この段階で、すでに候補地は陸上自衛隊が希望した「イラク南部(のサマワかナシリア)」が「バグダッド」に変わり、そのバグダッドヘの派遣に不満を示した米国から北部の「バラド」が示されると今度は日本政府が危険を理由に拒否して、振り出しの「イラク南部」に戻るという迷走が始まっていた。
[岡本は外務省OB、陸自には自衛隊を外交の道具としてきた外務省への反発があった]

迷走の一番の原因は現地情報不足。選挙前にイラク派遣を争点にしたくない官邸与党は準備を先送り。そこで石破長官は陸、空幕長二人を長官室に呼び非公式の派遣準備を命じた。

派遣準備に着手した防衛庁に対し、財務省は「防衛庁が勝手に進める派遣準備」とみなし、補正予算の編成を認めなかった。不安は的中したのだ。防衛庁予備費をやり繰りして準備費用を捻出せざるを得なかった。(略)
[12月9日派遣が閣議決定され]
52日間に及んだ「防衛庁の独自判断による派遣準備」は終わりを告げる。
 この間、「隊員の安全確保」を理由に準備状況は一切公表されなかった。イラク派遣は自衛隊によって国民の目に触れないように進められた。

2003年6月イラク復興支援のニーズを探りに来た調査チームに、米軍少将は、燃料は足りてる、負傷兵運んでくれ→
墜落したら10人は死ぬ。そうなったら世論は退却一色と防衛庁が却下→水&C130による空輸を提案→
C130は歓迎、でもジャップの水なんかいらないと米軍→
こうして日本側の支援策が米軍ニーズに合わなかったため、人道的復興支援に落ち着く。
明日につづく。