炎上する健さん邸と横尾忠則

著者経歴紹介における、婦人雑誌の景気良さに驚き。

オーラな人々

オーラな人々

婦人四誌で400万部

[1964年当時]婦人四誌(「主婦の友」「婦人倶楽部」「婦人生活」「主婦と生活」は雑誌界の王者だった。四誌あわせて毎月四百万部以上の部数を売っていた。広告も、繊維関係を中心に、婦人四誌が独占していた。(略)
 婦人誌と印刷所(大日本印刷凸版印刷共同印刷)は、空前の好景気にわいていた。入社してみて、はじめて好景気というものを体感した。
 月末になると編集部全員(40名以上)が、一週間ほど共同印刷にでむき、出張校正をした。昼食、夕食は共同印刷払いの出前をいくらでも注文できた。出張校正の最終日には、最終校了が午後十時、十二時になっても、近所の白山の料亭を一軒予約しておき、お酌の芸者まで待たせ続けていた。共同印刷は、疲労こんぱい状態の編集者全員を打ち上げ会に招待してくれた。その席の費用は全て共同印刷が支払った。深夜の大宴会が終了すると、料亭の前には外車のハイヤーが40台以上も並んでいた。一人一台ということで、全員が家まで“乗り捨て”(料金は共同印刷払い)で帰った。[それが毎月]
(略)
[婦人生活社新人歓迎会は、三越本店前集合、社長が現れ一点好きなものを買ってやる、一時間後に再集合と号令。その後、升席で大相撲観戦。湯島料亭「江知勝」ですきやき宴会。]
[著者がグラビアで森進一と青江三奈を紹介、「水商売上がりのような歌手を載せるな」と社長が批判したので、喧嘩して「平凡パンチ」へ]

岩田専太郎

 書きあがるのを芝の柴田錬三郎宅の応接間で待っていると、壁にフランスの人気画家、ベルナール・ビュフェの絵がかかげられていた。柴錬夫人に、ビュフェですかと質問すると、ぼくが編集部に戻る前に夫人から編集長に電話が入り、今度の新人は“生意気だ”とつげ口をされた。柴錬の連載小説の挿絵画家、岩田専太郎の担当になると夢のような生活がはじまった。連日の豪華な食事と、盆、暮には小遣いまで、先生から支給された。戦後20年ほどの間に岩田先生が、不適切な関係のあったマダム・女のコにプレゼントしたバーは六、七軒あると噂されていた。
(略)
ぼくは青年の怒りをぶちまける。“あのバーは先生が、夏休みの30日間だけ関係のあった長塚ママに、つくってあげたんですよね。お金なんて払わなくていいんじゃないですか”。岩田先生は“人生ってのは、そんな単純なもんではない”と純粋江戸っ子の気風のよさを滲ませながら論された。

植草甚一

[原稿料が多いという話になり]
「明細を見ると、イラスト代というのがあるんだが……。イラスト描いた記憶がない」
「あっ、それは八枚のコラージュ代で」
「えっ、あんなコラージュも原稿料、貰えるの?」
(略)
[ある日の帰りがけ、植草夫人がそっと]
「椎根さんが、くるようになってから、ウチの暮らし向きが、よくなって……」

高倉健横尾忠則

[横尾のアトリエにいると高倉邸炎上の報]
高倉邸と横尾アトリエは、すぐ近くだった。当時、横尾さんは、自分のヒーロー、健サンの写真集を制作していた。
(略)
 健サンは、門のあたりにいた。妻の江利チエミの姿はなかった。横尾さんが健サンに近づいていった。すると健サンは、くるりと振り返り、「アッ、横尾さん、おいそがしいのに、こんな所にワザワザ来ていただいて恐縮です。さあ、お茶でも……」と、いいながら、自ら魔法瓶のコーヒーをマグカップに注ぎ、横尾さんに手渡した。
 健サンは、その間、一度も家のほうを振り返らなかった。(略)しばらく静かに話をした後、健サンは他人の家の火事を見るような、さりげなさで、自宅が燃えつきる様を見ていた。

由利徹

 ビートたけしも、無名の時代から由利の主張しない芸風に心酔していた。たけしの初期のヒットギャグ“コマネチ”も、由利のギャグ“オシャマンベ”を改造したものだった。(略)
由利はマジメに、“オシャ”といって、股を開き、少し“間”をおいて“マンベ”とやるのが正しいと教えてくれた。その時には、必ず両カカトをすこし上げて、と親切にアドバイスまでしてくれた。(略)
“尊敬する芸能人・喜劇人は?”という問いには、「いないね。一人もいない。それははっきり言えるねえ」
(略)
[たこ八郎の死の前日、著者は一緒に飲んでいた]
たこには、いつも、一人では置いとけない、と思わせる寂しさがあった。真夜中になり、最後はゴールデン街の北側にあったモルタル造りのアパートのたこの部屋に送っていった。貧しさが洗剤として、室内をきれいに清掃していた。別れ際に、たこは、明日から真鶴の海に海水浴に行く、といった。それじゃあ、睡眠をとらなくちゃ、と忠告めいたことをいって、たこの部屋を出た。
 由利が、たこの死にショックを受けたのは理解できた。由利が持っていた、貧しい時代の日本の、美しい資質を、たこも、たっぷり持っていた。この師弟には涙がよく似合った。
 渥美清は大成功した由利徹であり、由利徹は出世しなかった渥美清ともいえる。どちらがよかったか、判断はつかない。

  • 佐藤名人

内田裕也のバンドにいた大学生の近田春夫と新しいクラブへ。筋骨隆々のオーナーは“裕也のマネージャーだった、今でも面倒を見ている”と豪語。著者が三島の剣道のたった一人の弟子だと言うと、俺が三島に居合いを教えたと。嘘ではなさそう。生意気な客に真剣で寸止めしたら酔ってたから八針ぬうケガになったという話に。

会話はなごやかに進んでいたが、ぼくと近田のものいい、悪意はないのだが、正確に話そうとすると、相手に反感を持たせる話し方に、佐藤居合名人はだんだん怒りはじめた。急に、奥の方にいたガタイの大きい用心棒風の男にむかって、“オイ、ヤスオカ、カタナ持ってこい、こいつら二人切ってやる!”と、どなった。
 あわてて、あの安岡力也が巨体をゆさぶってあらわれた。安岡は日本刀を持ってこなかった。佐藤名人は“オレがとってくる”といって奥の事務所にかけこんだ。安岡はぼくと近田にむかって、“悪いことはいいませんから、すぐ逃げてください。ホントウに、居合のためし切りの材料にされますから……”。
 近田とぼくはお金も払わずに明るくなった表参道の並木道まで逃げだした。

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