シェイクスピアの時代

シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと

シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと

シャクスピアのサイン

今残っているサインは、Willm Shaksp,William Shakespe,Wm Shakspe,William Shakspere,Willm Shakspere,William Shakspeareの六つだ。おもしろいことに、彼が用いなかった綴りShakespeare こそ、今現在広く使われているものである)。(略)ヘルゲ・ケーケリッツは、シェイクスピア本人は「シャクスピア」と発音していた可能性もあると考えた。

虐殺トラウマ

エドワード六世の時代にはプロテスタントだったのが、次のメアリー女王の時代にはカトリックになり、その次のエリザベス女王の時代にはまたプロテスタントに戻るという具合に、イングランドは揺れ動いた。(略)
[大混乱ではあったが]
内戦も大規模な虐殺も引き起こされることなく、プロテスタントへの移行は理性的で滞りなくおこなわれた。エリザベス女王の45年にわたる統治下では、処刑されたカトリック信者は200人にも満たなかった。これがどんなに少ない数かは、1572年のサンバルテルミの虐殺のときにパリ市内だけでも八千人のユグノー教徒が殺され、フランス全土ではさらに何千人が死んだのかもわからないのと比べてみればわかるだろう。実はイングランドは、フランスでのこの大虐殺が深いトラウマになっていた

エリザベス女王

カトリック信者から見たら彼女はアウトローの私生児だから、代々の法王はエリザベス女王を厳しく攻撃した。まずは破門して、次はあからさまに暗殺を指示するようになった。(略)
いつも命の危険にさらされていたから、女王を守るためにはあらゆる手段が講じられた。まず、屋外ヘ一人で出ることは許されず、屋内でも厳重に警護された。素肌にじかに身につけるデザインの服をプレゼントされたときには、病原菌が染み込ませてあるかもしれないので細心の注意が払われた。ふだん座る椅子でさえ、感染力の強い菌がまかれているかもしれないと疑ってかかった。(略)
[在位中]ということは、ウィリアム・シェイクスピアが生きている間はほとんどずっと――後継者問題が国民的関心の的となっていた。フランク・カーモード教授が指摘しているように、シェイクスピアの芝居の四分の一は王位継承問題が中心になっている。といっても、エリザベス女王の後継者をあれこれ詮索することは法律で固く禁じられていた。ピーター・ウェントワースというピューリタンの下院議員は、後継者問題を論説の中で取り上げただけでロンドン塔に送られ、十年も臭いメシを食らうはめになった。

気楽なプロテスタント

エリザベスはかなり気楽なプロテスタントだった。カトリックの慣習的な儀式が好きで(略)臣民に国教会への帰依を要求することはほとんどなかった。(略)
[宗教心より忠誠心が問題で]カトリックの聖職者たちの罪状も、「異端」ではなくて「反逆」だった。(略)[忠誠心が確かなら]
カトリック信者の家にも喜んで滞在した。つまり(略)カトリック信者であることは必ずしも無鉄砲ではなかったのだ。(略)
国教会の礼拝に参列したくないカトリック信者は罰金を払えばよかった。こういう人たちは「国教忌避者」(略)と呼ばれ、実に大勢いた。1580年には5万人と推定されている。国への罰金は1581年まではほんの12ペンスで、それもときどき思い出したように徴収される程度だったのだが、ある日突然、月額20ポンドに跳ね上がったからたいていの人は壊滅的な打撃を受けた。
(略)
臣民のほとんどは「上辺だけの国教会信徒」とか「法の上での冷めたプロテスタント」と言われていた。つまり、プロテスタントでいるように言われている間はプロテスタントだが、状況が変わったら喜んで、たぶん内心熱烈に、カトリックに改宗しようという人たちだった。
[同じプロテスタンでも、国教会から分かれた清教徒etcは権力に楯突く態度で迫害にあった。]

セント・ポール大聖堂

[約一万五千坪もある]敷地はちょっと意外なことに、墓地と市場の両方に活用されていた。ほぼ毎日のように印刷屋や書籍商の屋台に埋め尽くされていたから、生来言葉に敏感な若者にはさぞうっとりする光景だったにちがいない。書籍の印刷はそれより一世紀ほど前から始まっていて、贅沢品とはいえ、ほんの少し収入に余裕がある人なら誰でも本が買える時代になっていた。(略)天分も知識も備えたシェイクスピアが足を踏み入れたところは、こういう世界だったのである。天国を見つけた!と思ったにちがいない。
 セント・ポール大聖堂の内部は今とは比べものにならないほど騒がしくて、今よりずっと民衆に開かれた場所だった。大工や製本屋や代書人や弁護士や運送業者やその他あらゆる職業の人間が、声のよく響く広大な堂内で――礼拝の最中であろうとなかろうと――商売に励んでいた。酔っ払いや浮浪者たちはここを休憩所がわりにして、隅っこで用まで足した。少年たちは追い払われるまで回廊でボール遊びをしていた。

砂糖

階級を問わず誰もが好んだのは、甘い味付けだった。料理の多くは甘い砂糖衣でべとべとにコーティングし、ワインにまでたっぷりと砂糖を入れることがあって、魚料理にも卵料理にも肉料理にも砂糖は使われた。ここまで砂糖好きが昂じると歯が黒くなる人も大勢いて、ふつうに暮らしていてはそこにまでいたらない人は、砂糖くらい食べてますというところを見せるためにわざと歯を黒くすることもあった。女王をはじめ金持ちの女性たちは、これに加えて肌を硼砂や硫黄や鉛(略)を混ぜ合わせたもので漂白し、この世のものとは思えぬ美しさをかもし出していた。というのも、青白い肌こそ最高の美人のしるしだったからだ

喫煙サボって鞭打ちw

タバコはシェイクスピアが生まれた翌年にロンドンに伝わり(略)16世紀の終わりにはロンドンだけでも喫煙者は七千人をくだらなかった。喫煙は嗜好品としてだけではなく、性病や偏頭痛や、なんと、口臭にまで効く治療薬としても用いられた。とくにペストの予防薬として信頼が厚かったので、小さな子供まで喫煙を奨励された。イートン校では、喫煙をサボった生徒が鞭打ちの罰を受けた時代もあった。

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