想死表現、自由意志

前回の続き。

罪と恐れ―西欧における罪責意識の歴史/十三世紀から十八世紀

罪と恐れ―西欧における罪責意識の歴史/十三世紀から十八世紀

15世紀の死刑囚介護

中世では長い間、死刑囚は将来地獄の住人になる者とみられ、他の人間からは完全に見捨てられていた。死刑囚の面倒を見ようという人たちが集まって介護慈善団体が結成されたのは、たとえばローマでは、1490年のことだが、中世の視点とは逆の見方からである。(略)
われわれ人間は原罪を犯したため、全員罪びとであり死刑因ではないのか。処刑されようとしている者も、本質的には他の罪びとたる人間と変わりはないのではないか。(略)死刑因の最期は、他の人間にとってよりもなお、天使と悪魔の争いの決定的な瞬間なのだ。祈りと慈善団体員の存在は、とくに困難な状況において神の勝利を助けるに違いない。(略)
 斬首にせよ火刑にせよ命を奪われようとする者を助けること、それは死刑囚を慰めるというよりは、彼に宗教的務めを施してやるということである。

天国or地獄行きが決定する「運命の時」に向け長い時間をかけ準備をするため、死に慣れるため、想死表現をみつめる。

カラッチオーリ。「私が望むのは、人間が[……]腐敗と虹虫の真っ只中に横たわっている姿で描かれることだ。やがて目が落ち、耳も、唇もなくなっていき、おぞましい骸骨となり、すべての人間を震え上がらせるようになる[……]。
 死にかけている人ほど恐ろしい光景はない。顔は皺でゆがみ、目はあらぬ方を向き、口は震えて定まることはない。顔が崩れ始め、四肢はよじれ、魂は悔恨と嘆息に浸され、そして肉体のすべてがほころび始めるかに見える [……」。
 死は必ずや恐ろしいものになるはずだ、なぜなら罪の結果、すなわちわれわれの傲慢さに対する恐るべき罰なのだから。
フィレンツェのギャラリーで(略)一人の職工が肉体の上に起こりうる腐敗現象を蝋で再現していた。まずむくんでゆき、鉛色にそして青ざめて、至るところに裂け目が生じ、ぽっくりと開き、蛆で溢れ返る。(略)
[聖アルフォンソ『死への備え』]
死体がどのようにして、まず黄色にそして黒ずんでいくかしっかりと見なさい。すると体じゅうに汚らしくもくすんだ白い綿毛のようなものが浮いてきて、やがてどろどろとして鼻につく腐汁が流れ出し地面に粘りつく。この汚穢から凄まじい数の蛆がわき出し、腐肉を食らう。

女性忘れ難く墓荒らし

死後三年も経つ女性のことが頭から離れないエノーの司祭の話は際立っている。この誘惑を振り払おうとして、司祭はとうとう女性の墓を夜訪れ、「中にもぐり込み、死骸に鼻をつけた。死骸から発する臭いに耐えられるだけそうしていたのだが、とうとうひっくり返り半死の状態となってしまった。われに返ると、墓から勝ち誇ったように出てきたが、以後一度も肉の誘惑に駆られることはなかった」と言う。これと近い逸話が、「死んだ女性の面影を消すことができず、墓に赴きその女性の死体の一部を切り取った」隠修士の話で、「女性への思いが甦ってくるたびにそれをぴたりと鼻に当て、腐った死骸から発する臭いのおかげで誘惑に負けることはー度もなかった」とこれも言っている。

自由意志の否定

16世紀から17世紀のイギリスの説教集を読むと、救済に関する疑問や不安に突き当たることが頻繁であり、よく言われる「死後の不安からきっぱりと解放されたプロテスタントは、活力と熱気に溢れ、自分の地上の生の実現のために邁進する」という命題をにわかには信じられなくなる。別のよく知られた定言「清教徒(略)は教いに選ばれるのか、劫罰を被るのか、確信が持てないので、自分が神の選びに預かることができる証しとして、善行と自分の企ての成功に固執する[もちろん、こうした善行を救いの原因と考えるほど、清教徒は楽観論者ではない]」の方が、より現実に近いように思われる。
「人間はそれ自身、色欲以外の何ものでもない」とカルヴァンは飽きることなく言い続けた。「腐った根」から生まれたわれわれは「腐った枝」であり、われわれが生み出す「小枝や葉の全部に」われわれの「腐敗」が移っていく(略)
[ルターによれば日常生活における自由意志は現実だが]
「神の恩寵の領域では、そういうことは全くない、全然ないのだ。」カルヴァンも同一の視点から次のように言う。「かつていまだ罪を犯さず潔白だった頃、人間は、そう望めば永遠の命を手に入れることができるような自由意志を持っていた。」けれども「堕落し破滅することで」、このきわめて貴重な財産を変質させてしまった。だから、「霊的な死によって堕落し傷ついた」存在の中に、「自由意志をなおも探す」ことは誤りなのである。(略)
人間というものは皆、罪の奴隷状態にあるのだから、必然的に、人間の最も重要な部位である意志は[悪魔によって]拘束され束縛されていることになる。われわれは自分の固有のものとしては、罪しか持っていないのだ」、神の至高の恩寵が、われわれを自分自身から引き剥がしてくれる場合を除いては。

運命予定説

地獄堕ちの者たちは、まさしく神の摂理によって「裏切り者で人殺し」となるのである。(略)
神は法を超えた存在である。法は人間のためにある。人間は全能なる神によって動かされているにもかかわらず、法が人間を断罪するというわけなのである。
大きな罪(強姦や殺人)でも、その張本人・動因・主導者が神である限りにおいては、それは罪とならない。(略)
人間が法に逆らって罪を犯すのは「その張本人としてではなく、手先としてである」(略)
ツヴィングリもルターもカルヴァンも、人を震え上がらせるよりもむしろ、人を安心させることを意図して、こうした言明をしているのである。(略)
 19世紀から20世紀の初めにかけて、(人間のある部分は天国に行き、残りの部分は地獄に行くという)二重の運命予定説の中に、カルヴァンの教説の鍵を見出そうとする動きが盛んであり、今なお、そのように考えている人々もある程度の数は残っている。しかし、今日、最も一般的な見解によれば、カルヴァンは自分の神学のすべてを、運命予定説から導き出したのではないのである。(略)
実際には、カルヴァンは説教を行う際、ほとんどと言っていいくらい、地獄堕ちを取り上げてはいない。カルヴァンの目的はむしろ、救いの確実性を強調することにある。(略)
カルヴァンはその論争書の中で二重の運命予定を強調したわけだが、これはこの点に関する論敵たちの攻撃が誘発したものであろう。