シオニズムとアラブ

修正主義シオニズムの鼻祖ジャボティンスキー

1880年他民族都市オデッサ生まれ。

[のちに]ヘブライ語も習得するが、彼がその精神を自由闊達に吐露できた言語は生涯変わることなくロシア語であった。(略)
[ロシア文学を愛する18歳の青年はイタリア・ローマ大学で三年学ぶ]
彼は社会主義の経済理論を信奉してローマを去るが、マルクス主義の機械論的哲学が個人の権利と利益を無視する側面があることには強く反発していた。
 ジャボティンスキーの内的世界に社会主義よりも永続する衝撃を与えたのはイタリアのナショナリズムである。(略)特にガリバルディの中に尊厳に満ちた民族的存在を求めて闘う民族解放戦争の指導者の理想像を見た。外国勢力を駆逐して国家と国民の統一を成し遂げたイタリアの歴史的経験が、それまで問うことすらなかった自民族の現状に、知性溢れるユダヤ人青年の目を向けさせるのに充分であった

土着の欠如、羨望

ジャボティンスキーの民族論に土地への情緒的結び付きという土着的感覚が欠落していることである。民族的特異性の保持のために領土は必要であると彼が強調したことは、理屈ではない土地への帰属感を彼が持っていなかったことの裏返しではなかったか。
(略)
[と同時に]土との有機的な結び付き故に理論やイデオロギーを必要としない直接的な帰属感を持っている東欧の土着の農民への羨望を隠せなかった。(略)
[パレスチナ訪問の際に目にした]パレスチナに生まれ育ったユダヤ人青年たちがパレスチナの環境に違和感なく融け込んでいる様を次のように評している。「私は彼らを羨望の目で見る。この完全に有機的な感情を今まで決して知らなかったし、恐らくこれからも決して知ることはないだろう。

文化的自治の概念

政治的自治よりも少数民族の市民的権利の保障に重点をおいた文化的自治を想定する構想はオーストリア社会主義の影響

文化的自治の概念は、多民族地域である中欧・東欧において何らかの事情で分離独立できない人々が既存の国家の内部で自らの民族的アイデンティティーを保持するための政治的解決として考え出されたものであった。ヨーロッパと中東に広大な多民族帝国が存在した第一次大戦前に輪郭をとったジャボティンスキーの自治構想は、このような中欧・東欧の他民族的な伝統を色濃く反映している。(略)
[1912年の論文「少数民族自治」では]
少数民族は民族的帰属に従ってすべて個人として権利を認められ、「個人レベルで構成された」結合において統一されるべきだという主張である。ここで民族的帰属の決定基準として彼が採用したのは「民族意識」という曖昧かつ主観的な概念であった。
 彼は〈主権的な民族〉の権利と〈自治的な民族〉の権利とを区別し、少数民族には国家の枠組みの内部での広範な自治権を認めた。ただし自治は中央の代表組織を設けることのできるエスニック共同体に主に認められねばならず、その意義は主にその共同体の成員の市民的権利の保護であった。自治組織の管轄権は徴税、移民の流入の管理、文化的自治保全などの市民に関する事柄について想定された。

青年トルコ革命分析

「老人トルコ」(旧体制)が非トルコ系臣民の民族的個性に決して介入しようとしなかったのに対し、青年トルコは彼らにトルコ語を押し付けようとする意図を隠さなかった。(略)
彼は「オスマン帝国の本質的特徴」として「支配民族であるトルコ人」が少数派であることを指摘する。(略)
[少数派による]帝国維持の「重い代償」についても触れている。トルコ人が戦争と統治に全精力をつぎこまねばならなかった結果、トルコ民族全体が農民・兵士・官僚で構成されるようになり、国家経営の重荷が商業・工業・知的職業に従事するトルコ人中産階級の発達を妨げたという。(略)
「トルコにおけるトルコ人支配」は「中世的専制」によってのみ可能であると彼は論ずる、ここでの「中世的専制」とは個人や共同体の生活に介入する18世紀の「啓蒙専制」と違って、政治的権力を握りながらも個人や共同体に啓蒙専制よりはるかに多くの自由を与える中世の支配形態を指していた。(略)トルコ人は政治権力をすべて握ったが、キリスト教徒とユダヤ教徒には共同体の自治を認めていた。(略)
当初は非トルコ系諸人種の来るべき「オスマン化」という幻想にとらわれて民主化に寛容であった青年トルコ政府は、1911年には君主主義的・民族主義的・保守的政権と化してしまった。

ベギンの理想

ジャボティンスキーの場合と同様、ベギンもイタリア統一の中に民族主義的行動のパラダイムを見た。(略)と同時に彼のナショナリズム観を深い所で規定したのは、恐らく故郷ポーランドナショナリズムであった。列強のはざまで国家としての生存を絶えず脅かされ、少数民族問題に苦しみながらも、カトリックの信仰を精神的支柱として情熱的に燃え上がった戦間期ポーランドナショナリズムに対して、ベギンはその排他的側面への反発と同時に民族主義者としての共感も抱いたことだろう。他国の侵略になすすべもなかったチェコスロヴァキアの対極にあるイタリアとポーランドの主体的な民族運動に、彼はユダヤ人が民族として追求すべき理想像を見たのである。

シャロン自伝

1936年のアラブ反乱までは「……背後の緊張や散発的な流血にもかかわらず、ユダヤ人とアラブ人はまだ何とか共に暮らしており、畑や市場で日常的に会い、互いのかかわり合いから通常育つ関係を維持していた」と述懐している。少年の日のシャロンは対決の雰囲気ばかりではなく、入植村の人々がアラブ人との日常的な接触の中で持っていた共生の感覚をもごく自然に吸収していた。「両親も彼らの同僚たちもアラブ人と平等な土台の上で共に暮らすという考え方に違和感はなかった。(略)両親はアラブ人がその土地において完全な権利を持っていると固く信じていた。『その地において』と彼らは言ったものであった。ユダヤ人とアラブ人は隣り合う市民であることが可能だろう。しかし彼らは自分たちだけが『その地に対して』権利を持っていると疑問なく信じていた。そして恐怖であれ他の何かであれ、何ものも彼らを力ずくで追い出すことはあり得なかった

「その地において」と「その地に対して」

アラブ人は「その地において」権利[自治権・市民的権利]を持つが、「その地に対して」権利[主権]を持つのはユダヤ人だけである。言い換えればアラブ人が「その地に対して」の権利を要求しない限りユダヤ人とアラブ人は「その地において」共存できる――シャロンのこの考え方はジャボティンスキーやベングリオンにも共通する、シオニズムの左右の潮流の結節点とも言うべき考え方であったと言ってよいだろう。

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