第二の満州・インドネシア

前日のつづき。

第二の満州

インドネシアを戦後日本にとっての「第二の満州国」と見る向きもあったが、実際、インドネシアに強い関心を抱いた政財界人には、岸をはじめ鮎川義介など、戦前に満州で活躍した人々が目立ったのも事実であった。(略)
脱植民地化によって生じた空白に、共産側の浸透を憂慮するアメリカの黙認によって入り込む。日本の「南進」は、脱植民地化と冷戦という戦後アジアの二大潮流が交差することで現実のものとなったのである。
 しかし同時に、「共に血をすすりあって兄弟の交わりを」という岸とスカルノの結びつきに、冷戦とはまた別の一種の「アジア主義」的な気配を見て取ることもできるのかもしれない。実際、日本側関係者はインドネシア側に対して、技術力を誇る日本と豊かな資源に恵まれたインドネシアは補完関係にあり、両国が提携すれば相互の繁栄にとどまらず、アジアそのものの発展に大きく寄与するのだとことあるごとに訴えたが、それは実のところ戦争中の大東亜共栄圈の時代から繰り返されたレトリックであった。

謎の「二重クーデター」

9・30事件で共産党は弱体化、スハルトが陸軍を掌握。

[インドネシア駐在の米大使は]9・30事件はアジアにおいて日本軍の真珠湾攻撃以来の衝撃的な出来事だったと述懐している。[東南アジアを挟み込んでいた「北京=ジャカルタ枢軸」が一夜にして崩壊した。]
(略)
9・30事件を鎮圧したスハルトは、つづいて全国的な共産党掃討を開始(略)共産党首脳がスカルノによる政治的解決に期待をかけたこともあってさしたる組織的抵抗もないまま(略)60万人という「20世紀最悪の大量虐殺のひとつ」(CIA報告書)に至ったのである
(略)
半年に及んだこの大量殺戮は、当時ほとんど国際的反響を呼ぶことはなく、中国以外にはこれといった反応を示した国もなかった。

突如のシンガポール離脱で一挙にやる気を失った英国は主導権を日本に渡して東南アジア撤退、焦ったのはベトナムで泥沼の米国。
ASEAN

 1967年8月にはASEAN東南アジア諸国連合)が設立された。スカルノの凋落と、それに伴うマレーシアとの和解なしにはあり得なかった新たな地域機構の発足であった。「独立の完遂」に生涯をかけた民族主義スカルノ、そしてその標的となった植民地支配国イギリスが、ともに姿を消した東南アジアの海に、新しい時代の風が吹き渡ろうとしていた。

戦後日本の「世界観」

この「冷戦」(米)、「(脱)植民地主義」(英)、「革命」(中国)というアジアの前途をめぐるせめぎ合いの中で、日本とはいかなる存在であったのか。戦後日本がアジアに求めたのは、何よりも自らの経済的地平の拡大であった。だがそれは同時に、「冷戦か、革命か」で分断され戦乱にあえぐアジアの未来を切り開くのは、政治的イデオロギーではなく、「開発」を通した経済成長なのだという、戦後日本自身の歩みを支えた一種の「世界観」が潜んでいた

手抜きでスカスカなのでおまけ画像。

戦う広告

戦う広告

  • 作者:若林 宣
  • 発売日: 2008/07/30
  • メディア: 単行本
上記本収録。
『写真週報』昭和17年
クリックすると大きくなります。