空の戦争史

空の戦争史 (講談社現代新書)

空の戦争史 (講談社現代新書)

19世紀末すでに空爆が主要戦術となる予測はあった

[1899年第一回ハーグ平和会議でロシアが気球による空爆永久禁止を提案]
最終的には、この禁止宣言案に五年間という有効期限をつけるアメリカの提案が採用された。アメリカが五年間という有効期限をつけた理由は、空爆技術が将来さらに開発されれば、この戦術を採用するか否かによって戦場での優劣がはっきりと分かれ、勝敗の決着がつくまでの戦闘期間がきわめて短くなるというものであった。それゆえ、結果的には戦闘での死傷者数が少なくなり、人道的な観点から見れば有益であるという、現在から見ればあまりにも楽観的な見通しがアメリカの主張の骨子であった。
(略) [一方で、空爆があまりに破壊的なので]戦争はそう簡単に起きなくなるか、あるいは完全に廃止され、平和な世界がもたらされるであろうと予測する作家たちが現れた。
 例えば、1862年ヴィクトル・ユゴーは、飛行機の普及が国境の存在を無意味にするため、結局は国家間の戦争は起きなくなり、「平和革命」が起きるという夢のような未来像を描いている。
 したがって、アメリカ政府の考えだけが特別に素朴で楽観的であったわけではなく、これは当時の知識人の間にもかなり広く共有されていた未来像であったと言えよう。

無差別爆撃を理論体系化した男

 戦闘員と一般市民とを区別することなく、敵国の人間であれば無差別に攻撃の対象とするという思考方法は、実際には第一次世界大戦中に初めて芽生えたものではなく、それ以前から存在していた。しかしこうした考えを、第一次世界大戦後もっとも明確に打ち出し理論体系化した人物は、イタリアのジュリオ・ドゥーエ将軍であった。
(略)
 1914年7月に第一次世界大戦が勃発するや、その翌月には、ドゥーエは「誰が勝利するか?」という題の記事を書き、この戦争は長期的で費用のかさむ戦争になるであろうと予測し、近代戦争は「総力戦」の時代に入ったとの判断を下した。(略)
1921年戦略爆撃に関する自分の考えを体系化した著書、『制空』を出版した。(略)
これからの近代戦は戦闘員と非戦闘員の区別が消滅する大規模な戦争にならざるをえない(略)こうした総力戦においては制空権を握るものが勝利者となる(略)
空爆は、「攻撃された一部の国民に対する高度の暴力」によって「社会の完全破滅が不可避という恐怖心を生み」出すため、「残虐な特性にもかかわらず流血が少ないので、高い立場から見れば従来の戦闘よりも人道的である」と述べて、無差別爆撃を正当化したのである。(略)
「まず爆薬によって破壊し、焼夷剤で火災を起こし、有毒ガスで住民による消火を阻止する」(略)
最良の防御方法は「敵の航空戦力を撃滅すること」であり、「防御するには攻撃する以外にはない」と、徹底した攻撃主義を貫く。(略)
1923年には、彼の著書『制空』の抜粋英語訳がアメリカの軍関係者の間で回覧され、さらに1933年には27年増補版の英語訳がアメリカで出され、後の第二次世界大戦アメリカ陸軍航空軍の幹部となる当時の陸軍学校の学生たちの間で読まれて少なからぬ影響を与えた。(略)
[イギリスではドゥーエは知られなかったが]
イギリス空軍の指導層の間では戦間期に、ドゥーエ理論ときわめて類似した戦略思想が公的なものとして確立していった。

チャーチルと毒ガス

チャーチルは、1920年2月の段階でイラクでの爆撃機による毒ガス撒布を提案したことがあった。(略)
[第一次世界大戦での犠牲者多数により毒ガス使用への強い反感が国民にあり]英国政府は空軍による毒ガス使用を許可しなかった。
 しかしチャーチルは、「明晰に物事を考えられない[イラクの]人間」を相手に、彼らの「命を救うための科学的実験」であると主張して毒ガスの使用にこだわったと伝えられている。

空軍独立を主張して演習で勝手に戦艦を撃沈してみせたり、ニューヨーク上空を爆撃機編隊飛行したりしたウィリアム・ミッチェル。44歳新婚旅行を兼ねてアジアを視察

[日本が]「もしかすると世界で最も強力な空軍力にまで発展するかもしれない」とまで書き残している。
 しかも真珠湾攻撃の17年も前に、日米開戦になればハワイが日本航空戦力による奇襲攻撃を受けるかもしれないとも彼は的確に予測した。(略)
[1930年『リバティー』に「我々は日本との戦争に準備はできているか?」と題する記事を発表]
日本は航空作戦にとって理想的な攻撃目標である。(略)これらの市町村は主に木材と紙で作られているため、空からの攻撃目標として世界中で最高のものである。(略)都市は焼夷弾で直ちに燃焼し焦土と化すであろう。
[1920年に空母の必要性を説くも、空母が空軍独立を阻むと、1928年に空母無用説に180度転換。皮肉にも海軍が空母建造に乗り出したのは、ミッチェルによる軍艦撃沈がきっかけ]

マッターホルン作戦

[B29の日本本土への往復飛行が可能な地点、四川省成都に7万5000人の中国人を動員して飛行場建設]
ここに米カンザス州のスモーキーヒル基地から、カナダのニューファウンドランド島、北アフリカのモロッコ、エジプト、そしてカラチを経由してB-29ならびに必要物資を送り込んだ。
 その距離、1万8500キロであった。毎日十数機が送り込まれ、五月初旬には130機あまりのB-29がカルカッタに集結した。そこから成都まではさらに3200キロあったが、その基地に到達するには、乱気流の舞う標高7000メートル以上のヒマラヤ山脈上空を飛行しなければならなかった。
 「マッターホルン作戦」の名称の由来は、この危険なヒマラヤ山脈を越える飛行にあった。しかも、燃料その他の必要物資をカルカッタから成都まで輸送するために、B-29は何度も往復しなければならなかった。8トンの燃料・物資を成都まで運ぶ往復飛行のために、28トンの燃料を消費するという効率の悪さであった。