性愛より「種の認知」

1971年『婦人公論』掲載。出だしの「女は一人の〜」というくだりでのけぞる方も多いでしょうが、まあそれは置いといて。話のオチとしては人間には交尾は一度というシステムがないから、代わりに「女は一人の〜」という神話を女に押し付けるのだという、これまたのけぞる方も多い(以下略)。
デカ字にしたフカイ意味はない。

 よく女の本性といわれるもののひとつに、「女は一人の男しか愛せない」というのがある。たしかに、多くの動物のメスは、一生の間に一度しか交尾しない。たとえばギフチョウというチョウなどでは、一度交尾すると、オスの分泌物によって、腹の先端に妙な袋ができてしまい、二度と交尾できない。モンシロチョウでは、交尾の刺激が脳へ伝わり、それ以後はオスが近づくと、反射的に翅を開き、腹を垂直に立てる、いわゆる「交尾拒否姿勢」をとるようになる。(略)
[ガのメスは一度交尾すると性誘引物質の分泌しなくなる]
いずれの場合にも交尾は一度しか可能でなく、したがってメスは生涯に「一人の男」しか愛さないことになる。
(略)
メスが一人の「男」しか愛せないようになっていることのメリットは、すぐにわかる。一度交尾したメスが、それ以上ほかのオスと交尾することは無駄であるばかりでなく、産卵とか育児の妨げにもなるのである。オスのほうもまた、もし処女でないメスとばかりかかわろうとしていたら、それは種にとっては何の意昧もないことしかしていないことになる。

オスメス関係の一番の問題は「性とか愛」といった次元ではなく、「種の認知」

オス・メスというものができてしまうと、それに伴っていろいろな問題が生じてくる。それはわれわれが性とか愛とかいうときに思いうかべるような次元の問題ではない。
 昆虫におけるオス・メスの関係で、何がいちばん重要かといえば、それは愛でも性でもなく、「種の認知」なのである。つまり、今、自分が相手にしているのが、ほかの種の個体でなく、まさに自分と同じ種の個体であるかどうか、ということの判定である。
(略)
 この「種の認知」は一定の「儀式」に従っておこなわれる。すなわち、翅を開くとか閉じるとか、においを送るとか(略)
 この儀式はさらにいろいろな意味をもっている。ひとつは相互に敵でないことを表示して、相手を安心させることである。
(略)
 この儀式のまた別の意味は次のことである。それは、とくにメスについていえるのであるが、もしそのメスが生理的に交尾できぬ状態、あるいは(たとえば卵が未熟で)交尾をしても無意味な場合には、オスが正しいサインを送っても、恐怖がしずまらずに逃げだしてしまうのである。したがって、無意味な交尾が避けられて、もっとも生殖効率の高い交尾が保証されることになる。ただし、このような「望まぬ」メスも、その状態の程度によっては、度重なるオスの「説得」によって、オスを受けいれることはある。しかし、交尾はあくまでもメスの「承諾を得た」うえでの話であって、強姦は不可能である。その意味では、強姦というのはきわめて人間的な、おそらく人間独特の行動であって、動物的な行為ではまったくない。

学問に必要な<基礎>とは

着想とは、ある知識を別のある知識、あるいは、ある知識とある事実との間の新しい類似を発見することといえるだろう。それを発見できるかどうかは、基礎知識をもっているかどうかより、その人がその問題にどれだけ関心をもっているかどうかによって決るのだと思われる。
(略)
楽観的すぎるかもしれないが、どんな人間でも、正常に生活している人だったら、関心さえあれば、それに必要な基礎知識は自分で吸収してゆく能力があるとぼくは考えている。(略)
 個人の関心や意図を無視して教えこまれた〈基礎〉は、じつに基礎にもなんにもなっていない。ただ生徒を苦しめ(略)[忘却されてゆく](略)
社会は個人の意図や意欲でなく、科学そのものとその成果を欲しているのだから、(略)くだらぬ着想よりは、だれかが使いうる正確なデータのほうがよっぽどよい。数量的なデータというものは、もっとも科学的らしいスタイルをもっている。学校は、このようなデータを出し、それを〈処理〉できる人間を送りだすよう、〈社会〉から要請されている。これに答えるには、個人の意欲などかまってはいられない。学問体系を基礎からたたきこんでゆかねばならないのである。いわゆる〈勉学意欲〉とは、このシステムに組みこまれるために自分のほんとうの意欲を捨てることのようにさえみえる。
 しかしこのような場合ですら、個人の意欲から出発して差し支えないのではあるまいか。個人の好みに任せたら、好きなことばかりやって、基礎の勉強をしないだろう、とよくいわれる。しかしそのときにこそ、真の意味で学問の体系を信頼すべきである。何かをまともにやりたいと望んだ以上、基礎から勉強せねばやりたいことはできないのだ。
 この場合の〈基礎〉とは、その人間の意図にとっての基礎であって、社会が科学の体系をもとにして没人間的に考え、一律に彼に課してくるいわゆる〈基礎〉ではない。

生理学と生態学

ウサギならウサギー匹がその条件を満たして、個体として生命をまっとうしていったとしても、一匹だけでは「種の生命」は絶対に維持できない。反対に、一匹がキツネに食われて、その個体の生命が終わってしまったからといって、必ずしもその種の生命が終わってしまうわけではない。(略)
生命とは何かと問うとき、それが個体としての生命なのか、種としての生命なのか、という問題である。前者を扱うのが生理学だと考えれば、後者すなわち種としての生命を研究していくのが生態学であると考えていいのではなかろうか。