徹夜で仕上げた原稿を水木に代わって貸本マンガ出版社に持っていき原稿料を約束の半分に値切られ、ああ夫はこんな屈辱にいつも耐えていたのかと妻も号泣etcといった貧乏話を読んでいないと、下の文章のほんわりしたおかしさはやはり伝わらないだろうか。爆笑ポイントをデカ字にしてみた。
原稿料
さて、講談社の原稿料は、「月刊ガロ」よりもはるかに上でした。それどころか貸本マンガのほぼ10倍でした。金額を聞いて、私は声がふるえました。
「こんなにもらっていいの?」
「バカ、貸本マンガと同じに考えちゃいかんよ。貸本マンガの原稿料は、人間の原稿料ではなかったんだ」
「なんだか、夢みたい」
つげ義春
有能なアシスタントが必要になり、つげ義春に白羽の矢
爆笑ポイントをデカ字にしてみた
つげさんが突然、なんの前触れもなくあらわれたのには驚きました。着の身着のままで、何にも持たずに、わが家にふらりとやって来たのです。聞くと、住むところもないというのですから、水木もあわててアパートをさがしたようです。つげさんは飄然としていました。
「お父ちゃん、つげさんって、仙人みたいな人だね」
「うん、霞を食って生きているのかもしれん。実際、ものもそれほど食わないし」
「仕事は熱心なの?」
「熱心とまではいえないな。あの人が座ったところに座ると、オレも仕事をする気がうせてしまうんだ、でも絵はとてつもなくうまい!」
40歳の片腕の男と見合い結婚をして「当時は、とにかく男と女、一緒になって、家庭を築いていくうちに愛情が育まれるものだとされていて、私もそう思っていました」と貧乏でも仲良くやってきた水木夫婦にも危機があった。
鬼太郎がTV化された68年頃「アサヒグラフ」の食卓紹介コーナー、いつもの食事を並べていると水木が皿を隠し貧相な食卓に。
水木しげるを演じる
このころから、読者やファンに対しては意識して「水木しげる」の役を演じなければならないと思うようになっていたようで、身内や古くからの親しい人に対してと、そうでない人に対するときとで、接し方が変わるということが、その後、長く続きました。
しかし後年、自分のことを「水木サン」と呼ぶようになると、ある意味で、水木しげるであることが、より自然になっていきました。
夫婦の危機
プロダクション化、24時間仕事漬けで家族の団欒もなくなり
編集者や水木プロダクションの人たちとは長い時間、熱心に仕事の話をしたりしているのに、私とは会話がまったく続かなくなってしまったのです。
何ごとも水木の両親や兄弟の家が優先で、最後がわが家という順番も相変わらずでした。
それよりなにより、私の目を見て話してくれることがほとんどなくなったことが、寂しくてたまりませんでした。貧乏時代よりも、正直、この時代のほうが私にとっては、精神的に辛い時代だったかもしれません。
いまにして思えば、この時期には水木も苦しんでいたのです。立ち上げて間もない水木プロと一族を率いる身として、周囲に弱音を吐く姿を一切見せられないので、寂しかったのでしょう。
(略)
[水木はこう書いている]
<マンガ……それはきつい商売だ(略)
「解放されたい」と何度か思ったが、これは食えるようになった安心感からくるゼイタク病だと自分自身でいましめたりしてみた>
なまけもの
後年、水木は人に「何か書いてくれ」などと頼まれると、よく「なまけ者になりなさい!」とか「がんばるなかれ!」と書くようになりました。私は常々それはおかしいと思っていました。水木は、なまけ者どころか、誰よりも一生懸命生きている人だからです。誰よりも働き、誰よりも努力してきた人だと思います。
はじめて水木が「なまけ者になりなさい」と色紙に書いたのを見たとき、私は「お父ちゃん、なんでまたそんなことを書くの?」と思わず問い質したことがあります。すると水木は「いや、これでいいんだ」ときっぱりといい、「オレは『なまけもの』になれるように、努力すべきときにうんと努力しておけという意昧でいってるんだから」ともいいました。しかし、こんな言葉からそんな真意が伝わるのでしょうか。
波のある稼業だが81年からの数年間が極度の低迷
[風呂で背中を流しているときにポロッと弱音]
「いまの人は、目に見えるものしか信じない。オレがいままでやってきたことはムダだったのか。妖怪なんて、いないのかもしれない」
どんな貧乏をしても、どんなに作品がけなされようと、自信に満ちあふれていた水木が、こんなことをいうなんて、はじめてでした。
ヒマの光明?
水木はこの時期、コツコツと妖怪の絵を描いていました。仕事の注文がないからといって、アシスタントに急にやめてもらうわけにもいかないので、妖怪の絵をきっちり描くことを思いついたのでしょう。(略)
細かなタッチで描いた妖怪の絵を、少しずつ描き貯めておくようになったわけです。
これも全文引用しないといまいちニュアンスが伝わらぬかもしれぬ、ミルク代にも事欠く貧乏時代エピソード。木製1/1000軍艦作りに励む水木の片腕となるうちに引き込まれる妻
書店で水木は偶然、[子供時代に見た「樅」の載っている]軍艦の本を手にとってしまい、それで突然、自分の手で、旧日本海軍の連合艦隊をつくろうと思い立ったのです。
(略)
売ってない部品は自分で木を削ったり針金を切ったりしてつくりました。
(略)
ところが大和、武蔵、陸奥、長門……など、ずいぶんつくったところで、水木が「もうこれは廃艦にする!」といったので、私はびっくりしました。
なんでも、模型屋さんの店頭に七〇〇分の一のプラモデルが並んでいたのを見たのだそうです。それは、手づくりで私たちがつくってきたものよりずっと精巧で迫力があり、感激したとか。それでそちらに変更したいとのことでした。
(略)
[ここまでやったのにと気乗りしない妻だったが模型屋の店頭で現物を見せられ]
「すごい!」
「そうだろ」
「ここまでは私たち、つくれんね」
「うむ、どうやっても、いまのものではつくれん。だから、こっちに乗り換えんか」
実際、手づくりで連合艦隊の全艦艇をつくるということには、私も限界を感じていました。何しろ駆逐艦などは同じ形のものがたくさんあって、それをまったく同じ仕上がりにすることがとてもむずかしく、苦労に苦労を重ねていましたから。
そこで夫婦で一大決心をして、新たに七〇〇分の一のプラモデルによる連合艦隊再建に、一からとりかかりました。
(略)
「この部品をここにとりつけて……そうだ、それだ」
「そこの色はこの赤だ!」
「それでええ。うまくいった!」
無邪気な顔で一生懸命になっている水木と一緒にいるのも、楽しくてたまりませんでした。
- おまけ
下記本から若冲の妖怪
18世紀にコレってかなりポップじゃない?
ついでに意味なくカエル。