ゾラ小説講座、トルストイがフロイトが吼える

前日のつづき。

マルクスからヒトラーまで インタヴューズ 1

マルクスからヒトラーまで インタヴューズ 1

  • 発売日: 1998/10/29
  • メディア: 単行本

ゾラ小説講座

プロットをあらかじめ用意したことは一度もありません。そういうことはできないたちなのです。もちろん、何時間もプロットのことを考え、目を閉じて、手に頭を埋めたままでいたため、気分が悪くなることもあります。でも、そんなことをしても、なんの足しにもなりません。そこで、最後には、あきらめてしまいます。私にできることといったら、それぞれの小説について、三種類の準備を行なうことだけです。最初の準備は、簡単なスケッチを描いてみることです。本の主題となるアイデアを決め、このアイデアを発展させるにはなにが必要かを考えます。同時に、それそれの事実が論理的に結びあわされるような関係をつくっていきます。その次の『書類』には、それぞれの登場人物の性格についての研究が含まれます。主役については、さらに歩を進めて、その人物の父と母がどんな人間で、どんな人生を送ったのか、また彼らの相互的な関係が子供の気質にどんな影響を与えたかについても調べます。そして、その子供がどのようにして育てられたのか、学校時代はどんな感じだったのか、また育った環境はどうか、交友関係はどのようなものだったのかというようなことも研究します。そのあとで、ようやく、その人物を小説のなかに登場させるのです。ですから、おわかりのように、私は、現実に対してできるかぎり肉薄します。その人物の外観、健康、遺伝などまで考慮にいれます。三番目にすることは、登場人物をどのような場所と環境に置くかを考えることです。小説のいくつかの部分の背景となっている場所について調べあげます。登場人物の風俗や習慣、性格や言葉遣いを調査し、そうした場所における住民の隠語さえも勉強します。
 しばしば、鉛筆でスケッチしたり、巻き尺で部屋の大きさを計ったり、また、家具がどのように置かれているということも調べます。そして、最後には、そうした界隈の夜の顔も昼の顔もすっかり頭にいれてしまいます。そして、こうした材料をすべて丹念に集めてから、ようやく机にむかい、毎朝規則的に仕事をします。一日に、本の活字組にして三ページ以上は書かないよう心がけます(略)
主題が鮮明なかたちで頭にあるので、仕事はむしろゆっくりと進んでいきます。ただし、中断することはありません。実際のところ、私は書いたものを消したり書き直したりすることはほとんどないのです。そして、原稿を書き終えて、わきに置いてしまうと、それを見直すことはありません。翌朝、ストーリーをもう一度頭に入れると、話はおのずから論理的に流れていって、結末へと至ります。
 私は、数学者のように仕事をします。書きはじめる前から、小説が何章に分けられるかわかっています。描写の部分は、それぞれ割り当てられたスペースをもっていて、もし、描写が一つの章には長すぎる場合には、それを別の章にまわします。私はまた、読者の心を休ませてやるようなこともします。ある箇所があまりに長く、エクサイティングで読者の心が緊張しすぎるようなときには、なにか、しばらくのあいだ注意をそらせるようなものを間に差し挟んで、緊張をほぐしてやる努力をするのです。

トルストイ立憲主義運動を語る

 「それは危険であり、かつ無益でもある。なぜなら、人びとの活動を正しい道から逸らすことになるからです。憲法は現状を改善する役には立たないし、自由をもたらすことはできない。(略)
すべての人にとっての正しい道は、政府の活動への参加をやめることです。つまり、兵役を拒否し、政府関係の仕事を拒否し、毎日、つねに善をなすように努めることです
(略)
民衆は憲法を求めているわけではない。そのためにアジテーションをおこなっている人たちは、民衆のことがなにもわかっていない。口では民衆への愛を唱えながら、ほんとうは民衆のことなんか気にしていないんだ。ただ軽蔑しているだけです。民衆が望んでいるもの、それはただ一つ――土地ですよ。

「いまどきのロシアの婦人は、じつに文章がうまくなりましたね。ツルゲーネフよりよっぽどうまいし、われわれのだれも敵わないくらいだ。ただ、彼女たちは書くべきことをなんにも持っていないがね」

ウッドロー・ウィルソン、保守をdisる

[『ニュー・ラディカリズム』ってなにと問われ]
「すべての国民がラディカルなのだよ」(略)
わたしは、手をこまねいている連中が、国民を恐れている連中が、自分たちのことを『保守』というかっこういいことばで呼ぶことを認めるわけにはいかない。(略)
 いわゆるスタンドパッター(改革反対者)とは、とことんばかなことをする人間のことだ。わたしが想像するには、北極海の浮氷の上に立っている人間は、自分ではじっとしていると思っているが、じつはそうではない。足の下では海水が激しく流れている。想像するに、いわゆる保守主義者は、自分は父親のいた場所に立っていると主張している。ところがそうではないのだ。なぜならば、この国はかれらの父親のいた場所ではないからだ。歴史の流れとともに、流氷のように、大きく移動してしまっているのだが、かれらはそのことに気づいていない。

G・K・チェスタトンH・G・ウェルズバーナード・ショーを語る

尻切れとんぼなんだよ、彼は。ウェルズの限界は、無限の精神を持っていることだな。そら、男の子なんかが愛好するあれだよ、いや、私も好きだが、いろんな小道具をひとまとめにした折りたたみ式の万能ナイフがあるだろう? ウェルズはあのナイフに似ているんだ、ただ、彼の場合はペンチが欠けている。何事もきちんと締めくくりをつけたためしがない――終止符の何たるかがわかってないのかね。彼が文章の最後にくっつける点々こそ、まさしくウェルズその人だという気がするよ。彼は新思想の海をただよう帽子のようだ。
(略)
ウェルズよりショーの方が果敢だが、しかしショーは自分の感情に恐れをなして、結局は目も当てられない負け方をするんだ。彼の愛の描き方など、ただの妄言としか思えない。

フロイト激昂

 わたしは言った。「精神分析はそれを行なう者すべてにキリスト教の慈悲の精神を必然的に吹き込むのではないかという気がいつもしています。(略)すべてを理解することはすべてを許すことです」
 「逆です」、フロイトは大声を立てた。彼の顔だちはヘブライ預言者のような荒々しい厳しさを備えていた。「すべてを理解することはすべてを許すことではありません。精神分析はわれわれに何を許せるかを教えるだけでなく、何を避けなければならないかをも教えるのです。何を根絶しなければならないかを示すのです。認識すれば悪に対して寛容になれるわけではありません」
 わたしは突然理解した。なぜフロイトが去って行った弟子たちとあれほど激しく争ったか、なぜ彼が正統精神分析のまっすぐな道から弟子たちが外れたことを許せなかったかを。

エディソン

「遠くを見る機械はいかがです?」
「(略)順調に進んでいる。(略)一万キロ以上離れた人間同士が見えるようになる、などと豪語する気はない。
(略)
「蓄音機はどんな具合です?」
「すでに実用段階に達している。1800の企業や商店に設置されているし、我が工場では毎日40台を量産している。
(略)
「新聞で拝見しましたが、色つき写真の実験をなさっているそうで」と訊くと、エディソンはニッコリ笑った。「いや、あれはデマだ。そういうおセンチなことはやらん。感傷なんぞに用はない」。それから、こうも言った。「カーネギーの奴、すっかりおセンチになってしまいよった。感傷的もいいところだ。こないだ会ったときも、こっちは奴の製鉄所の話がしたいのに――私はそういうのに惹かれるんだよ、巨大な工場が昼夜動いていて、溶鉱炉がゴーゴー燃えてハンマーがガンガン鳴って、何エーカーも何エーカーも仕事場が広がっていて、人間が金属と戦っていて。なのに向こうはまるっきり乗ってこない。『あんなものは野蛮さ』とか言うだけで、いまじゃフランス美術だのアマチュア写真だのの話ばっかりだ。残念だったらないね」
 「頭に装着して、思考を記録できるような機械は作れないでしょうか? 喋ったり書いたりする手間が省けると思うんですが」と訊くと、エディソンはちょっと考えた。「可能ではある。だが考えてもみたまえ、そんなものが発明されたらどうなるか。みんながみんな、まわりの人間の目を逃れようとほうほうのていで逃げ出すだろうよ」
(略)
「結局電気って何なんでしょうね?」と訊いてみると、
 「電気とは運動の一形態であり、振動の一体系だ。ある一定の速度の振動が熱を生み出す。速度が落ちれば、光が生まれる。もっと落ちれば、何か別のものが生まれる」