ぼくの週プロ青春記・その3

前日のつづき。
K−1一回目を深夜観ながら「いくらオシャレな演出をしても、これじゃプロレスには敵わないな」と著者が鼻で笑っていた時代もあった。

ぼくの週プロ青春記 90年代プロレス全盛期と、その真実

ぼくの週プロ青春記 90年代プロレス全盛期と、その真実

  • 作者:小島 和宏
  • 発売日: 2008/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

潔癖症で厳しい団体管理、女子の他団体対抗戦でも嫌がられるほど口を出し、メディアには腰が低く、インディー嫌いの長州が認める男。大仁田引退二週間前に離脱の噂。取材するとアングルじゃなくてガチらしい。

[麻原尊師ギミックを強要されたという説はちがう]
もっと根の深い問題があったのではないか?本当だったら一大事のはずなのにFMWの選手たちはまったく悲観していなかったことが強烈に印象として残っている。これでやっと自分たちの好きなように出来る、というような空気をひしひしと感じた。このあたりに問題の本質があるような気がしてならない。
(略)
FMW旗揚げからずっとアングルまみれの日々を見てきただけに、どこまでがリアルでどこからがフィクションなのかは見分ける自信があったのだが、絶対にアングルだと思っていた後藤離脱が真実だったことで、何がなんだかわからなくなっていた。
 僕は「ハヤブサしか相手はいません!」と強調したが「絶対にやらん!」と大仁田は断言した。ゴールデンウィークの関係で週プロの締め切りは過ぎており、僕に嘘をつく必要はなかった。(略)
 だが結局、試合の五日前になって、引退試合調印式の席で対戦相手はハヤブサに変更された。ホッとしたが、頭の中は余計に混乱した。誰の言葉を信じればいいものか?さらにターザン後藤がIWAジャパンに電撃参戦。

週プロの存在を揺るがした、新日本対Uインターの大成功

長州が「ドーム押さえろ!」と言ってから、わずか一ヶ月しか時間がなかったのにこれだけの動員をマークしたということは、企画さえ良ければ週刊誌による煽りは必要ないことを証明した。週プロの存在が目障りになってきた新日本にとって、そういう意味でもドームの成功は大きく、英知出版から新日本のオフィシャルマガジンが週刊誌として創刊するという噂まで流れてきた。来たるべき予兆はすでにこの頃から始まっていたのだ。
(略)
[翌日の日刊スポーツがバカ売れ]
日刊では浅すぎる。月刊では遅すぎる。
しかし、朝刊スポーツ紙がこれを機に取材体制を強化し、スペースを毎日、大きく割くようになった。日刊でも浅くはなくなってきた。むしろ、週刊では遅すぎるからドームの翌朝、スポーツ紙がバカ売れしたのだ。
 週プロ創刊時のキャッチフレーズが根底から覆されようとしていた。
 ただ、そんな状況にまだ僕たちは気づいていなかった。

正直、スマンカッタ

新日本とUインターの対抗戦で、垣原賢人に負けることになっていた健介は、ふて腐れた表情で入場したが、それを見た北斗が「あんたはプロじゃない!」と叱咤したという。

ターザン迷走

 深夜、あちこちに電話をかけていた編集長。その相手はどうやら複数の外部ブレーンだったらしい。それを僕たちに聞かれたくないから別室に閉じこもるのだ。
 その人たちから聞いた噂話、あるいは面白い視線の切り口を聞くと、その裏付けをとるために僕たちから現場の真実を聴取していたのだろう。少しでも裏が取れていれば、飛ばし記事にはならないからだ。
 編集長はそうした意見に影響を受けているようだった。面白い話を聞いて即座に巻頭記事などに書き殴る。編集長が「手の平返し」と揶揄された裏には、そんな背景もあった。複数の人の意見が入り混じっているのだから、一貫性がないのは当然なのだ。
(略)
ブレーンには当時『紙のプロレス』発行人だった柳澤氏や、骨法の堀部夫妻がいたと思われる。そして、ブレーンの中でもっとも大きなウエイトを占めていたと思われるのが仁香さんだった。
(略)
[鈴木健を編集長にしたい仁香が著者を追い出そうとしているという噂。さらにのちにこの噂を流したのは著者をサムライに引き抜こうと画策していた谷川だという話もあったりして虚虚実実。]
 みなさんご存知のように、仁香さんはその後、山本編集長と離婚し、鈴木健と再婚した。

新日取材拒否

 山本編集長は表紙にデカデカと「理由なき取材拒否!」とキャッチを打って読者にその事実を報告した。これまでだったら、その煽りに乗ってくれたかもしれないが、既に求心力は低下していた。「またやっちゃいましたか」という読者の冷ややかな反応が見てとれた。東京ドームで山本編集長がブーイングを受けた光景を思い出した。あれは本気だったのだ。SWS騒動以来、週プロを快く思わない他のマスコミは助けの手を差し伸べてくれるわけもなかった。東京ドーム興行でそこのとどめを刺した。週プロは大きくなりすぎた。調子に乗りすぎたのだ。

退社

想定外の動きがあった。僕が退社するという話を聞きつけた新日本サイドから「ウチに来ないか」という打診があったのだ。しかも、声をかけてくれたのは、今回の取材拒否事件の黒幕だと言われていた永島勝司新日本営業本部長だったから二度、驚いた。まったく動く気はなかったので交渉のテーブルに直接、着くことはなかったのだが、人を介して「君の力が必要だ」「(略)二十代でマンションが買えるから」などと揺さぶりをかけられた。どうやら、翌年に開戦を予定していたインディー連合軍との対抗戦を睨んで、その交渉役やストーリーライン担当として僕に白羽の矢が立ったようだ。「引退スクープを連発する男」と評価されているらしい。
 これまでもマスコミから団体のフロントに転身した人は多いが、たいがいがそれまでの人間関係(レスラーとイーブン)が崩れてボロボロになっていくのを見ていたので、何があっても、その職だけにはつかないと決めていた。