宮大工西岡常一・その2

 

前日のつづき。

宮大工西岡常一の遺言

宮大工西岡常一の遺言

ヤリガンナ

 法隆寺昭和の大修理のとき、せめて飛鳥建築の仕上げだけはヤリガンナでやってもらいたい、そういう文部省建造物課の希望がありましてね、けれどもヤリガンナは室町からこっち見てませんので実物がありませんでしょ。で、いろいろ、方々からの出土品を参考にして作ってみたんですが、どうしても切れませんにゃなあ。播州の三木でこしらえてもらいましたが、鋼が硬いのに切れない。それでひょっとしたら飛鳥の釘を鍛造し直したらどうかと思い付きまして、まあボロボロの釘を集めて、堺の刀鍛冶の水野という人に頼みましたら、二、三丁こしらえてくれまして、それでもってはじめて削れるようになりましたんですわ。やっぱり鉄も、溶鉱炉で高熱処理したもんは駄目やということですな。日本刀のように、水減りいうそうですけど、一貫目の鉄を四百匁になるぐらいまで鍛えに鍛えた鉄やないとあかんということです。

[室町時代に大鋸(おが/大きなノコギリ)が朝鮮より伝わり]
ヨキやクサビで割っていくんやなしに大鋸で挽いて製材するように変わった。飛鳥の建築はみな割り材を使ってます。ところが大鋸が登場し台鉋が登場すると、割り材を使っていたときよりも木割が細くなり、社寺建築はより洗練されてゆくことになりますわな、きれいに仕上がりまっさかい。結果としてヤリガンナは使われなくなる。そして江戸時代には規矩術というものができて、図面通りにやれば誰がやっても一律に同じものができてしまう。大工さんは便利になったでしょうけれども、一方で木の癖で組むということが忘れられて寸法で組む、つまりは木のいのちはないがしろにされるということですわ。感心しませんな。

法隆寺五重塔薬師寺東塔を

較べてみますとね、法隆寺は実際にかかる力以上の太い材料が使われておった。ところが薬師寺になると柱高が高いのに木割が細い、けれども千二百年も三百年ももっておる。なぜかというと、裳階(もこし)というもんがあって各重の柱をぎゅうっと締め付けて揺れを押さえる、ちゃんと構造材として組み込まれておるわけです。ということを考えますと、せいぜい半世紀ぐらいしかたってないのに、ずいぶん考え方が進んだといえますわな。強度や力学を見通せる人がいたんやないかと。新しい技術をもった人が大陸から来たか、大陸で勉強した人が帰ってきて教えたか(略)
法隆寺の伽藍でいえば、通り肘木(斗組から斗組に渡る長い肘木)というのがありますけれど、通り肘木を斗で加減して傷めないよう工夫してあります。薬師寺のように様式ができ上がってくるとそんなこと関係なしに仕事を納めていますわな。様式が洗練されて木割が細くなっていけばいくほど、木の扱いに無理がきて木に対する思いやりがすくのうなっていきます。

木割術書

秘伝の中身は大したものじゃない

 木割ということもよく言われますが、ほんとうの木割ができ上がっていったのはだいたい鎌倉後期か室町やないですか。それまでは木割というものはなくて、その場その場で材料を見較べながらやっていったんです。木割ができると設計するほうは楽になる、考えんでもええんやから。基準ができて設計が簡単になると同時に(現場では)分業が可能になる。つまり誰がやっても同じものができる。(略)
 江戸時代になると木割術書が棟梁家の家宝のようになってきますが、そんなもん大切なもんやない。他人にのぞかれんように大事に隠しもってるちゅうことは、逆にあんまりたいしたもんやないということですわな。