「暗闇のスキャナー」で中原昌也

フィリップ・K・ディックをつなげて中原昌也っぽくなるかなあという試み。以下囲んでないけれど「スキャナー・ダークリー」からの引用。

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

 このファシスト警察国家で生きのびていくには、いつも名前を思いだせなくちゃだめなんだ、自分の名前を。いつだって。
 この女のことだ、ぐさっとひと刺し、そのまま歩きつづけるだろう。ナイフをうまく手のなかに隠しているから、おそらくほかの通行人はだれも気づいていない。だが、こっちにはわかる。ナイフの切っ先がどんどん近づいてくる。しかたなくわきにどくと、女は無言で通りすぎていった。
 「そんなのありかよ!」チャールズは女の背中に向かってさけんだ。
 「車なんてほっとけ。問題はおまえの命だぜ」三人は暗いリビングルームのなかを通りぬけた。三人で。そして、いまや永遠に去ったあの瞬間の再生は、そこでぷつんと切れ、永久に消えてしまった。
 おなじ<マクドナルド>の店が何度も何度も出現する。あげくの果てに腹がヘリ、<マクドナルド>へはいってマックバーガーを買うと、それはこの前のときにむこうが売った品物とそっくり、その前のときに売った品物ともそっくり。
 「またもどってくる」アークターはかっとしていった。この施設は重苦しいムードに包まれているが、いま帰るとなって、そのムードがいっそう強まったようだ。脳が機能しようとしない。なんの思考もなく、反応もなく、返す言葉もない。情けなくて弱々しいセリフさえ、まったく思いうかばない。おかしいな、と彼は思い、当惑にかられた。それから、そそくさと建物の外に出て、駐車場に向かった。
 「ヘロインのおとり捜査官チームの話で、ふたりでヤクを打ったとたんに片方が完全にラリっちまって、目につく人間を手当たりしだいに撃ちまくる。自分の上司も含めて。見さかいなく」
 「じゃ、わたしが何者かをきみが知らないほうが無難だな」
 「どのみち、いずれはだれかがわれわれをみな殺しにするでしょう」
 「それでこっちも肩の荷が下りるさ。まちがいなく」
 一瞬ひらめいたのは、こんな考えだった。キッチン・キャビネットに恨みはない、憎いのは、妻と、ふたりの小さな娘と、この家ぜんたいと、動力芝刈り機のある裏庭と、車庫と、放射暖房システムと、表の庭と、フェンスと、くそったれな地所ぜんたい、そのなかにいる人間ぜんぶだ、と。彼は離婚を望んだ。家族と別れることを望んだ。そして、まもなくそうなった。そしてじょじょに、それらのすべてを欠いた、新しい陰気な生活が忍びこんできた。
 いま住んでいるこの暗い世界では、醜悪な事件や意外な事件、それにときたまのささやかだがすばらしい事件が、たえず目の前にあふれでてくる。なにひとつあてにならない。たのしいスケジュール、一日のなかでみんながリラックスして、のんびりできるひととき。それを破壊するやつがいるなんて。だが、ここでの長く暗い夕暮れの影のなかには、すくなくとも厳密な意味で、掛け値なしに正気といえる人間はすくないんだ。だれもが勝手な理由をつけて、謎めいた行為をやってのける。だれもが、幻想のなかでなく、現実のなかで行動する。事実、面識のない相手でさえ、電話帳から無作為にこちらの名前を選ぶかもしれない。
 「人生は」とバリスがまるでひとりごとのようにつぶやいた。「重いだけで、ほかになんにもない。人生はたった一回のトリップで、なにもかもが重いんだよ。重くて、どんどん墓場へ近づいていく。だれにとっても、どんなものにとっても」
 殺しあいでもなんでもやってりゃいい。だれがあいつらを必要としてる?いやな気分、すごくいやな気分だった。べつの考えがうかんだ。ひょっとしたら風向きが変わって、万事がよくなるかも。とたんに気分が晴れてきた。それだけでなく、目に見えないパトカーを避けながら運転中に、短い幻想のフィルムが頭のなかでまわりだした。

あそこでみんながむかしどおりにすわってる。

 そこには死んだ仲間が顔をそろえていた。澄んだ白い光を浴び、あっちこっちにすわっている。日光じゃなく、もっといい光線。まるであの連中の下に海があり、上にも海があるみたいだ。
 みんなのためにも、スキャナーにはもっとましな仕事をしてほしい。もしスキャナーの目が、おれの目とおなじように、おぼろげにしか見えないとすると、おれたちはこれまでずっとそうだったように、呪われて呪われて、その状態で最後に死を迎えることになるからだ。ほとんどなにも知らずに、小さな断片さえとりちがえた状態で。
 「政府がとんでもない犠牲を要求するもんだから」
 「人生がとんでもない犠牲を要求するんだ」
 「ほんとの話、こんなに恐ろしいことはないわ。だれかが、それともなにかが、なにかの生き物が、自分でそれと知らずに犠牲になってるのを見るのは。本人がそれを知ってるならまだしも。それを理解して、志願してるならまだしも」
  もし法律を破った場合も、法律はひとつしかなくて、みんながしょっちゅうそれを破ってる。警官はそのたびに、どの法律、なんの規則に違反したかをこまごまと書きこむが、ぜんぶおんなじ法律だ。歩行者の信号無視から反逆罪にいたるまで、どんな法律違反にも刑罰はひとつだけ。つまり、死刑だ。法律を破るたびに、ひとりまたひとりと消えていく。
 サークルの全員が拍手した。びっくりして顔を上げたブルースは、そこに笑顔の輪を見いだした。みんなの目に温かい賞賛がこもっており、全員の拍手のひびきは、ずいぶん長く彼の心の奥に残っていた。