グリーンスパンのニクソン、フォード評

波乱の時代(上)

波乱の時代(上)

ニクソン

経済と政策に関する巧みな質問でわたしの意見を聞き出した。自分の意見を話すときには、そのままのセンテンスとパラグラフが見事に整った文章になる話し方をする。(略)
[そんなニクソンが選対会議で豹変、四文字言葉連発で民主党を批判。愕然とする著者](略)
後に、クリントン政権の高官が、ニクソンユダヤ人嫌いだと非難したので、わたしはこう話した。「それは誤解だ。とくにユダヤ人が嫌いだというわけではない。ユダヤ人を嫌い、イタリア系を嫌い、ギリシャ系を嫌い、スロバキア系を嫌っていた。好きな人間はひとりもいなかったと思う。人をみな憎んでいた。ヘンリー・キッシンジャーを酷評していたが、それでも国務長官に任命した」。ニクソンが辞任したとき、わたしはほっとした。何をするか分からない人物であり、その人物が強大な権力をもつ大統領の地位にあるのは恐ろしかったのだ。

価格統制・ラムとチェイニー

ニクソン大統領が賃金と物価を統制するようになった後、わたしはワシントンに飛んでドナルド・ラムズフェルドに会った。賃金と物価を統制するために政府に設立された経済安定化プログラムの責任者になっていたからだ。ラムズフェルドは生計費会議の議長も務めていて、ディック・チェイニーが副議長だった。(略)
ある週には繊維産業で問題が起こった。農業団体は政治力があるので、政府は綿花の価格を統制できなかった。綿花は値上がりする。だが、加工の第一段階にあたる未漂白未染色の綿織物の価格には上限を設けていた。このため紡績会社が苦しくなった。原料価格は上昇しているのに、商品価格はあげられないからだ。そこで、未漂白未染色の綿織物の製造を止める。すると突然、仕上げ加工会社と縫製会社が、材料が入手できないと悲鳴をあげるようになった。ラムズフェルドは「どうすればいいんだ」と質問し、わたしは「簡単だよ、価格をあげればいい」と答える。こうした問題が毎週でてきて、二年もすると賃金と物価の統制は完全に崩れてしまった。かなり後に、賃金と物価の統制は最悪の政策だったとニクソンは語っている。だが、悲しい現実がある。これが悪い政策であることを、ニクソンははじめから知っていた。それでも政治的に得策だとして採用した。

フォード

 フォードはニクソンと、昼と夜のように違っていた。フォードは精神的に安定しており、いままで知り合ったなかで、これほど心理的なこだわりの少ない人はあまりいないといえるほどだ。奇異な印象を受けるようなことはないし、隠れた動機があると感じることもない。怒っているときは、当然だと思える理由がある。だが、怒ることはまずなく、これほどいつも冷静な人は少ない。(略)
[75年サイゴン陥落直後、米船拿捕の第一報メモ。副補佐官に]
「許可する。われわれが先に発砲しないことが条件だ」といった。そして会議に戻って議論を続けた。わたしはメモをみていないが、クメール・ルージュから発砲を受けた場合、必要なら反撃する許可を与えたのはあきらかだった。
 フォードはいつも、自分が知っていることが何で、知らないことが何なのかを理解していた。ヘンリー・キッシンジャーとくらべて自分の方が知的に優れているとか、外交政策についてよく知っているとか考えていなかったが、気押されることはなかった。自分をよく知っていた。心理テストで正常という結果がでる人はめったにいないが、おそらく、そういう人のひとりなのだろう。

週ごとにGNP

GNPは四半期ごとにしか発表されず、かなり後にならないと経済の動きがつかめない。バックミラーだけを見ながら車を運転するわけにはいかない、
 そこでわたしは緊急用のヘッドライトを装備しようと考えた。週ごとにGNPを作成して、景気後退の動きをリアルタイムで把握できるようにしようと考えたのだ。
(略)
 それ以降、経済政策の課題をはるかに明確につかめるようになった。毎週、定例の閣議で、わたしは景気後退の最新の状況を報告する。十日ごとの自動車販売台数、週ごとの小売企業販売統計、さらには住宅着工許可件数と住宅着工件数、失業保険システムから提供される詳細な情報などを検討していった結果、この景気後退が軽度のものだと確信するようになった。(略)
 このため、大統領と閣議に景気は底を打つ段階に入ったと報告することができた。わたしは確信をもってこう話した、「正確に何月何日になるかは分からないが、個人消費か住宅市場が突然悪化する事態にならないかぎり、景気はまもなく回復します」。

75年の規制緩和

 まったく注目されていないが、規制緩和はフォード政権の大きな成果のひとつだ。当時、アメリカ企業がどれほどの規制を受けていたのかは、いまでは想像することさえむずかしい。航空、トラック、鉄道、バス、パイプライン、電話、テレビ、証券、金融市場、貯蓄銀行、電力・ガスなどの事業はすべて、厳しい規制の対象になっていた、事業の細部にいたるまで、規制当局が監督していた。
(略)
フォード政権の規制緩和キャンペーンは当初、鉄道、トラック、航空を標的にした。企業や労働組合が激しく反対したが、数年以内にこれら三つの業界の規制緩和を進めるための法律が議会で可決されている。
 (略)たしかに、規制緩和の成果は大部分、何年もたってからあらわれている。たとえば、鉄道貨物運賃は当初、まったく動かなかった。だが、この政策によって条件が整えられていたからこそ、1980年代に創造的破壊の巨大な波が起こった。AT&Tなどの巨大企業の分割、パソコンや翌日配送の宅配便などの新しい産業の勃興、ウォール街の企業合併・買収(M&A)ブーム、企業の再生がレーガン政権の時代の特徴になった。

JPモルガン=胴元丸儲け

 いくつもの企業の取締役になったが、いちばんうれしかったのは、JPモルガン社の取締役になったことだ。
(略)
 モルガンの取締役を務めたのは、国際金融の内部の動きを知る絶好の機会になった。たとえば、通貨トレーディングで毎月、利益をだしつづけているのが不思議でならなかった。外国為替市場は効率的なので、主要通貨の為替レートを予想しても、コインを投げて表がでるか裏がでるかを予想するのと同じ程度の正確さしか保てない。やがて経営陣に質問した。「知っているかぎりどの研究でも、外国為替市場で一貫して利益をだしつづけることはできないとされている」
 「たしかにそうだ。しかし、利益をあげているのは予想が正しいからではない。われわれはマーケット・メーカーだ。為替相場がどちらの方向に動いても、売り買いのスプレッドで利益を得ている」と経営陣が説明した。いまのイーベイと同様に、取引を仲介して一回ごとに少額を得る。これを大規模に行っているのだ。

どういうキャラの人か知らないのですけれど、オレはモテるぞとこういう本で主張してるのがw。そこらへんに劣等感があるのでしょうか。
明日につづく。