少し前に小林信彦が文春連載でネタにしてたので『三島由紀夫・映画論集成』を借りてみた。
- 作者:三島 由紀夫
- 発売日: 1999/12/01
- メディア: 単行本
『からっ風野郎』出演理由。
オブジェとしての俳優
石原慎太郎氏などは、自分の可能性をひろげる一つの行動として、映画の仕事を考えているようだが、ぼくは、字を書いたり、文章で表現したりする方が、よっぽど行動的だと思っている。行動的とは、自分の自由意志で仕事をして、自分の好きな世界を言葉で築いて、現実にないもの、あるいは、現実に似たものを作り出す。これが行動的ということだ。
映画の世界で行動的なのは、監督だけだ。その意味では、映画監督は小説家に似ている。
俳優というものは、そうではない。いちばん行動から遠いものだ。
(略)[命じられるまま演技する俳優](略)
ぼくは、そういう自分の意志を他人にとられてしまったような、ニセモノの行動に、非常な魅力があって、それで俳優になりたいのだ。
(略)
いちばん行動らしくみえて、いちばん行動から遠いもの、それが映画俳優の演技と考え、ぼくはその原理に魅力を感じた。
言葉をかえて言えば、映画俳優は極度にオブジェである。
(略)
ぼくはなるたけオブジェとして扱われる方が面白い。これは普通の言葉でいえば、柄とか、キャラクターとかで扱われることで、つまりモノとして扱われ、モノの味、モノの魅力が出てくれたら成功だと思う。(略)
[「週刊コウロン」昭和34年12月1日号]
虚弱体質
シナリオではヤクザの二代目朝比奈は豪傑で利発な男になっていたのだが、間のびしたぼくの仕草やセリフではどうしてもその味が出せないのだ。そこで困り抜いた監督はさっそくぼくを間が抜けて、ケンカも気も弱いヤクザに作り変えてしまった。作り変えてはじめてなんとか見られるようになった。これなど監督の前では、完全にオブジェに過ぎないぼくだったわけだ。
(略)
とにかく今度の映画出演で、ぼくはぼくのもっている性格とか気質の側面をはしなくもさらけ出したことになった。これはふだん私小説を軽視しているぼくが、とんでもないところで私小説的なものを露呈した格好になったわけで、まずは苦笑といったところだ。
[「京都新聞」昭和35年3月28日]
都合のいいところから撮る“中抜き”に感心
僕はやっぱり映画に出て得だったと思いますね。いまも非常におもしろく思い出すのは、中抜きというやつなんですよね。あんなアブストラクトというか、シュール・レアリスティックというか、あんなおもしろいものはないと思った。小説にも時間を前後させる手法があるわけですよ。回想と現在とか、時間の秩序が狂って前後させていく手法は前からあるわけですね。これはベルグソンから出てきたのかもしれないけれども。ところが映画の中抜きというのは、つまり心理的な時間の狂わせ方ではないんですね。全機械的な、全く無意味な時間の前後の狂わせ方でしょう。
(略)[怪我をした場面を撮っていたのに次のカットでは元気になっているという体験](略)
映画芸術というものが、ぜんぜん芸術的動機でも、心理的動機でもなんでもなく、時間の秩序をひっくり返すというのが、とても新鮮でおもしろかった。いま書下しを一つ書いているんですけれど、小説でもそれがやれるんじゃないかということを考えました。
[「キネマ旬報」昭和36年5月下旬号]
アンドレ・カイヤットとの対談、
フランス人のバッサリ感が凄くてワロタ。あの三島がたじたじ、日本人は優しいとオモタ。いきなり民法の話って、と思ったらアンドレさんは元弁護士だった。
[映画は小説のように残らないのではと三島が振ると]
カイヤット あなたの論点は、小説や映画の普及の方法を攻撃しているのであって、今の問題とちょっとはずれているのじゃないのですか。
例えばこういう問題を考えてみましょう。一人の小説家がいる。彼は無人島に住んでいた。書く紙もペンもない。しかたがないから砂の上に指で書いていく。そしてそれは消えていく。しかし、それが消えていくものであっても、彼がアルティストだということについては、根本的には否定できないのじゃないか。
[小説なら美女と書いてあとは読者がそれぞれ思い描くが、映画はイメージを限定するという自論を展開する三島。スタンダールは美女と書いてあとは「目の輝きと漆黒の髪」と描写するくらいという話を受けて]
カイヤット あなたもご存じでしょうが、スタンダールは民法をいつも模範にしていたのです。民法はそこに書かれた法的解釈以外は許されません。彼はそれをモットーにして書いたのですから、その言葉からいろいろなことが想像されるというのは、むしろスタンダールの精神からはずれた解釈ではないかと思う。
あなたはスタンダールを優れた人として評価しているのではなくて、むしろスタンダールの弱点を考えているのではないのでしょうか。(笑)
三島 いや、それは僕はちがうんだ。(笑)もし時間がよければもうちょっと喰い下るんですが……。
[「改造」昭和28年12月号]
荒唐無稽
映画はますます理詰めになって来て、西部劇ですら、『シェーン』のような理詰めの傑作が生れてくると、私のような空想好きの映画ファンは、どこの映画館へ入ったらよいのか困惑する。
(略)
恥かしい話だが、今でも私はときどき本屋の店頭で、少年冒険雑誌を立ち読みする。いつかは私も大人のために、「前にワニ後に虎、サッと身をかわすと、大口あけたワニの咽喉の奥まで虎がとびこんだ」と云った冒険小説を書いてみたいと思う。芸術の母胎というものは、インファンティリズムにちがいない、と私は信じているのである。
地底の怪奇な王国、そこに祭られている魔神の儀式、不死の女王、宝石を秘めた洞窟、そういうものがいつまでたっても私は好きである。
(略)
ハリウッド映画のおかげて、あらゆる歴史的環境は、新奇な感を失ったなまぬるいリアルなものになってしまった。私はもう一度、映画で思うさま荒唐無稽を味わってみたいと思うのである。
(略)
私はいつもそんな映画にかつえている。そして私のいちばん嫌いな映画といえば、それはいうまでもなく、あのホームドラマという代物である。
[「映画の友」昭和29年7月号]
微妙な分量だが明日につづく。