敗北の文化・その2

前日のつづき。

敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

 
  • フランス篇

失った領土を植民地に投影

 このようにフランスの植民地政策は、国民を敗北から――心理的・空間的に――遠ざけ、その代償を提供し、国家の再生を促し、新たな国家的使命を生み出した。(略)
フランスの植民地主義を推奨し支援しながら、その〈報復〉衝動を英国に向けさせるというビスマルクの計算は完全に正しいように思われた。(略)1890年代には、ドイツに対する〈報復〉が衰退する一方で、〈報復〉は英国との植民地争いにおいていわば突然のルネサンスを体験した。エジプトにおけるフランスの再三の敗走は次のような言い回しを生み、不安を引き起こした。すなわち、「我らが植民地セダン」「エジプトよ、英国との間の我らのアルザス・ロレーヌ
(略)
 〈報復〉のレトリックの植民地政策への転用が示すのは、失敗している間はアルザス・ロレーヌの「代替物」にもならなかった植民地が、いかに迅速にまたいかに徹底的に国民の自負を担う新たな支柱へと変わっていったかである。植民地主義はさらに、モーリス・バレスのような過激なナショナリスト、ネオ報復主義者たちが希望を託す拠り所ともなった。「私はモロッコを愛している。というのも、そこには(……)我々のために三万から四万の良き兵士がいるからだ」

  • ドイツ篇

 1918年秋の「総動員」は、後の歴史家によって見込みのない幻想と見なされた。「もともと国民戦争だったものをいまさら国民戦争に転化させるわけにはいかなかった」というゴーロ・マンの議論は確かに正鵠を射ている。
(略)
 「総動員」(略)が放棄されたのとほぼ同じ頃、何人かの高級将校や官僚たちの間では、国の崩壊を英雄的滅亡として演出する案が浮上していた。1918年11月初旬頃に軍最高司令部で案出された「王の死」計画は、ヴィルヘルム二世が英雄的最期を遂げて、国の屈辱を清算し、君主制の名誉を救うだけではなく、新たなテルモピレー神話を作り出すことを想定していた。この計画によれば、「適切な地点を選んで、小規模の特別攻撃を遂行する。これによって皇帝は前線で英雄的な死を遂げ、重臣たちが殉死する」
(略)
 〈王の死〉をめぐる空想よりもよく知られていて、かつ歴史的に重要なのは、ドイツ海軍の「最後の出航」あるいは「死への航海」という作戦である。これは、実現の見込みのない個人的な想念ではなくて、海軍最高司令部によって実際に準備された作戦計画だった。艦隊は、スカゲラク海戦を除いて一度も戦闘に参加していなかったので、1918年11月の時点において、ドイツに無傷で残されていた唯一の戦争手段であったからだ。
(略)
皇帝は軍の先頭に立って英雄的な死を遂げるどころか、〈夜と霧〉に紛れてベルギー=オランダ国境を越えて逃亡した。(略)
わずかの将校を除いて、最後の一人まで戦う決意をしたはずの軍隊は抵抗せずに武装解除された。ベルリンを革命から守るべく集合した何千という志願兵たちは、そのまま送り返された。
 暴徒と化した兵士や市民が、真昼間に通りの真中で将校の肩章をもぎ取る光景が、敗北の原風景として後に想起されることになった。(略)この光景は、ヴィルヘルム帝政期の軍人・官僚階級の破綻と無力を象徴していた。

浄化する嵐

右派グループのリーダーのひとり、エドガー・ユングによれば、崩壊が起こったのは裏切りによってではなくて、「大衆の脱走」によってだった。そして、この脱走は正当なことだった。なぜなら、ヴィルヘルム体制は最後の一滴まで血を流して防衛する価値がなかったからだった。注目すべきは、20年代の急進的ナショナリストが、革命的左派とまったく同じように、1918年の崩壊を浄化する嵐と見なしていたことである。ヴィルヘルム体制は、急進的ナショナリストにとっても、消滅を悲しむべき黄金時代ではなく、極端な物質主義、最悪の趣味、うわべだけの華美、空疎なレトリック、つまり、デカダンスそのものに向かう恐るべき邪道だったからである。彼らは世界大戦を国民的な再生として歓迎した。そして、かつての金ぴかを払い落とし、国民を浄化する煉獄の炎として、敗北を受け入れたのだった。

教育のせいにする

フランスの教育改革の対象が、政治的には成熟しているが、読み書きのできない市民だったのに対して、ドイツでは、教養はあるが――知識を詰め込まれてはいるが――政治的には未成熟だった臣下たちが問題なのであって、これが大戦で最後まで頑張れなかった主要原因と見なされたのだ。ドイツの教育制度が辿った誤った道とは、教育の場が国家市民の育成ではなく、「騒々しい理性の工場」「脳味噌の絶え間ない捏ね繰り回し」となってしまったことであった。すでに1902年に、教育改革者のルードヴィヒ・グルリットが嘆いたように、「不安の教育の産物であって、青白い、怯えた、抑圧された青年たちが〔生み出され〕、自信を喪失し、おどおどとして、師の意思のままに生きている」。ここでもまた、ドイツとフランスの関係は環状をなして展開していた。まずフランスが、プロイセン・ドイツの学校教師の方法を、生き残りのために重要な、模倣すべきものとして賛嘆したのに対して、40年後のドイツでは、「小独裁者」と呼ばれるまでに硬直していた教師を、フランスの共和制的な「教員」をモデルとして鋳直すことが必要だと見なされたのである。

アメリカに対抗できるのはウチだけ

 だが、連合軍の勝利がアメリカの尻馬に乗って得られたものだすれば、ドイツは「ヨーロッパ」に敗れたわけではなかった。
(略)
1918年以後にとって重要だったのは、アメリカが唯一の勝者であり、ドイツが――アメリカとの関連において――本来の敗者だった。たしかに敗北は痛恨ではあったけれど、ドイツは唯一、アメリカに対抗しうる強国であり、将来のヨーロッパとアメリカの対決において、唯一の本格的な対抗馬であり、大西洋を繋ぐ対話のヨーロッパ代表者であるというイメージを抱くことができたのである。
(略)
 道徳的なリーダーシップに加えて、ドイツには、軍事的および金融的な優位性と独立性があった。アメリカに借金をして戦った協商側とは違って、ドイツは自力で戦争を遂行した。自らインフレに苦しみながらもドイツは、アメリカがかつての同盟国に冷ややかに請求書を突きつけるのを満足気に見ていた。

フランスのごまかしかた

アメリカの肩入れなしには勝つことができなかった。フランスがこの当惑を解消し、アメリカとの関係を定義したイメージは、自分自身の魅力のゆえに愛される恋人という立場だった。合衆国が1917年に参戦したのは、自国の利益のためではなく、人間の権利、フランス革命、「文明」のフランスを賛美したからだった。アメリカは、マリアンヌをドイツの陵辱者から救い出す若き英雄であった。アメリカの愛人としてのフランスは、アメリカの助けを自らの自立性に対する干渉とみなす必要はなかった。それは、1776年のアメリカ独立戦争にフランスが支援したことのお返しと理解されたからである。