戦後翻訳風雲録・その2

前日のつづき。大分省略してはいるのだが長文引用。

新編 戦後翻訳風雲録 (大人の本棚)

新編 戦後翻訳風雲録 (大人の本棚)

  • 作者:宮田 昇
  • 発売日: 2007/06/02
  • メディア: 単行本

福島正実との青春エピソード

[まだ親しくなかった頃、同人誌の合評会で福島が著者の作品を酷評。会後仲間と飲んでいるうち福島はけしからんということになり家に押しかけて取っ組み合いの喧嘩]
 つぎの日、苦い気持ちとなにか大きな過ちをしたのではないかという思いで、アルバイト先でうつうつとしていたところ、ふと見ると路地に自転車に乗ったまま、福島がはにかむような笑いを浮かべて、こちらを見つめて立っているではないか。
 私が駆けよって、昨夜の非礼を詑びると、彼は黙って手をさしだした。彼はアルバイト先の鉛版屋の配達の途中で立ち寄ったのである。後で知ったのだが、その後、荷台に載せた配達の品をどこかで落として、大目玉を食らったという。
 それが彼との長いつきあいのはじめであった。SF作家石川喬司がのちに福島を評して「醒めたロマンチスト」といったが、それは至言である。拙ない習作にひと晩かけて批評する思い入れ、それでいて相手を逃げ場のない袋小路に追い込む冷徹な批判。当時を振り返って、改めて「醒めたロマンチスト」の原点を見る思いがした。

隆慶一郎

 戦後生まれの出版社に勤めた私にとって、創元社はその硬質な出版物、とくに選書をはじめ、翻訳書でも、仰ぎ見る存在であった。のちに知るのだが、彗星のごとく現われ、異色の時代小説をかずかず発表して消えた隆慶一郎さえが小林秀雄にせがんで入社した社である。もっとも、本名池田一朗は、社内で女性問題を起こしたり、時間に縛られず、創元社の枠をもはみ出す存在で、シナリオライターを選んで辞めたといういきさつを、秋山孝男から聞いた。

常盤新平早川書房辞職顛末

訪ねて近くの喫茶店で、常盤新平の不当な処遇につき、早川と話し合った。
 開口ー番、彼がいったのは、「君の事務所が組合幹部の会合場所になっているのはどういうわけか」という、思いもかけない一撃であった。(略)
[全くの誤解であると反論](略)
 しかし常盤のことになると、早川は強情でしかも不条理であった。彼は悪い男だという一点張りなのである。組合に入らなかった中間職制のすべての人間が、よくいわない。彼には野心があり、一部の部下を手なずけている。外部の評判も悪い。今後の禍根を断つというきわめて抽象的な意見をくり返すのみだった。しかも、私が常盤の能力を評価し、彼が辞めるマイナス点をいいたてればたてるほど、かたくなになった。
 私はその態度の裏に、彼の危惧を感じた。もともと本質的に組合を厭う中小企業のオーナーは、組合の構成メンバーからいって、それをも牛耳れる可能性があり、かつ企画力のある有能な人間を、頼りにするどころか、逆に、同族企業の将来のために排除しようと考えても不思議ではない。
 彼にはきわめて鋭い経営感覚がある一方、早川家の財産を保全するためなら、なりふりかまわない執念があった。(略)
まもなく常盤新平は辞表を出し、受理された。常盤にとくに目をかけられていた何人かの人間も、その後を追うように辞めた。
 常盤の占めていたポジションを引き継いだのは、アメリカ帰りの副社長である子息であった。
(略)
同族会社にとって、頭の痛い存在になりうる組合を骨抜きにしただけでなく、後継者に要の仕事をさせるために、実力者常盤新平の排除に成功したことになる。
 小林信彦は、月刊「プレイボーイ」誌に当時の日記を載せ、二、三の人間が彼への電話で、なにかトラブルがあって常盤が排除されたと受け取られかねない発言をしたと記しているが、そのようなことはない。また、首を切られたわけでもない。また、そのなかで「とにかく、あれだけ悪い編集者はいなかったです」という発言をも紹介しているが、そのために辞めざるをえなかったのでもない。
 強いて責めるとしたら、せっかく福島正実から後継者としてバトンを受けながら、半年ぐらいで辞めざるをえなくしてしまった、常盤のガードの甘さであろう。人のよさだろうか。

小林の小説でモデルにされた宇野利泰と常盤

 ミステリー作家であり翻訳者でもある早稲田の教授と宇野利泰を混ぜ合わせてモデルにした小説という噂は(略)すぐ仲間内には伝わってきた。
 ほどなく宇野から、『虚栄の市』を持っているか、読みたいという電話があった。(略)持っていないから買うと答えると、君は買うな、だれか持っている人間を捜してくれという。私は、なぜ自分で買わないのか、またこちらには買うなというのか、不思議に思った。(略)
宇野は愛人がいることを隠してなどいない。おそらく家族も知っているはずである。[なぜモデルにされたことを気にするのか](略)
いつもの調子で「内容はおおよそつかめた」という。私は買ってゆっくり読んだらどうかと勧めた。
 彼の答えは意外だった。「家人の目に触れさせたくないし、このようなものがあることも、知られたくない」というのである。
(略)
 私が理解に苦しんだ『虚栄の市』での彼の行動は、その後、おなじ小林信彦中原弓彦)が書いた自伝的小説『夢の砦』を読むにおよんで、多少はわかった気がした。(略)
なぜ読んだかというと、雑誌「宝石」の光文社への身売り、おなじ社から出されていた「ヒッチコック・マガジン」の廃刊が背景になっていると聞いたからである。「ヒッチコック・マガジン」日本語版の交渉には、私が当たった。継続して出版できるよう、できるだけ条件を安くする交渉をした記憶もある。
 だが小説の出来とは関係なく、読んだ後、かすかな苦いものが残った。彼の後釜になるかもしれなかったある登場人物への「毒」のようなものだ。それもそのモデルと噂された人物から、当時、私が聞かされていた事実と違っていたからで、知らなければ感じないですむ違和感である。