ユートピアの終焉

夢の終焉―ユートピア時代の回顧 (りぶらりあ選書)

夢の終焉―ユートピア時代の回顧 (りぶらりあ選書)

支配を夢見る知識人

ユートピア的なものの熱に感染したのはなによりも知識人だった。神のようになることが知識人の夢だった。
(略)
トマス・モアでさえロッテルダムエラスムスあての手紙で、ユートピア島の支配者になっている夢を見たことを告白している。あらゆる作者が、自分の考え出した世界の支配者になっている夢を見た。(略)
ユートピアは哲学者、文学者、そしてのちには科学者の絶対的支配の夢だった。ユートピアは歴史的現実となる機会があれば、専制と独裁のあらゆる恐怖で終わる知的な権力幻想であった。

幾何学都市

直角、円、正方形、直線の支配のなかにユートピア的な「幾何学熱狂」を感じとることもできるだろう。このような都市の中央広場に立ち、あるいは道路に沿って歩くというのは、どんな心地がするものだろうか。まず一目で見渡せる喜び、そしてだれの目にも明らかな秩序への喜びに圧倒される。全部を見渡すのは無理としても、一目で世界を隅から隅まで見通すことができる。自分が今立っている都市の一角を理解してしまえば、ほかの部分の様子もおのずとわかってくる。こうなると不意打ちを食らう心配もない。次になにが来るか、次の街角、次の広場はどんな様子をしているかも、わかってくる。こういう配置の都市にいると、未来は計算可能となる。
(略)
すべてのものが同一であるところなら、人はまた同時にあらゆる場所にいることになる。どんなに離れた場所でも、どんなに遠い未来でも一目で見渡せるように世界を設計することが、ユートピア的支配の目標である。そして絶対主義はこの目標を実際政治のなかで習得する。世界を計画通りのものに作り替えることは、ルイ十四世のフランスで最高の国家機密とされた。(略)中世の都市中心部の複雑さは、絶対主義の諸侯とその都市計画者たちからひどく忌み嫌われた。

気球遊泳が王の支配美学を暴く。
ハイ・イメージ論w。

上から見れば人工世界はその無限の次元を失い、植え込み空間はその不意打ちの効果を失う。上から見れば平面のあらゆる秘密はあらわになる。そこに支配の力がある。この視点から見れば、ヴェルサイユ庭園はあらかじめ計算された秘密の関係と計算された美しさ全体をあらわにする。上から見るということは、もっとも秘密の権力思想を示すものである。ヴェルサイユの上を飛ぶことは支配者の頭のなかを旅することであり、それによって支配者の創造の総合計画を見ることができる。アンシャン・レジームの終焉は気球の上空遊泳である。革命の本質は、市民が絶対主義の創造物の総合計画を認識することにある。新しい視点は、平面で行動した人びとの目には見えなかった王の支配美学の法則をあばき出してくれる。

気球革命

アンシャン・レジームに対する本来の革命は軽気球である。十八世紀最後の十年間に世界中から一斉に喝采を浴びたのは革命の政治家ではなく、ましてやナポレオンだのアメリカ・デモクラシーの考案者でさえもなく、気球乗りジャン=ピエール・ブランシャールという、イギリスとヨーロッパ大陸のあいだの海峡を初めて気球で横断した男だった。革命の時代、ブランシャールはヨーロッパとアメリカでスターのなかのスターだった。モーツァルトさえしのぐ有名人だった。広大なペンシルヴァニアの上空二千メートルを飛びながら、プランシャールは自然の善意と荒野の自由さと農民生活の完全さを夢見る。空飛ぶ人間を前にして初めて、幾何学ユートピアは古めかしくなる。

アウステル大陸漂流記

支配者が世界を思いのままに作り替える途方もない権力は、上空から見て初めてはっきりする。沼地は干拓され、川は運河に変えられ、山は平らにされ、谷は埋め立てられ、自然の曲がりくねった個所は取り払われる。この時代のもっとも奇妙奇天烈なユートピア物語のひとつ、ガブリエル・フォワニーの『アウステル大陸漂流記』(1676年)では自然のあらゆる対立が解消される。オーストラリア大陸のある国に男女両性を具有する半陰陽が住んでいる。この地方ではあらゆる山、あらゆる窪みが平らにならされている。そこには国家も階級制度もない。自然からの完全な解放、世界の完全な幾何学化は、国家の廃止とあらゆる社会的強制の全面的な内面化に通じる。

恐怖政治は徳の流出

「恐怖政治は……徳の流出にほかならない」とロベスピエールは1794年2月5日、国民公会議員に向かっていう。「革命政府は自由の専制政治である」と。
 (略)ロベスピエールは、ユートピアが初めから隠していた矛盾をあけすけに語る。すなわち暴力と自由という、互いに相容れないものが理想社会の基礎であるというのだ。不正義な人に対する正義の人の暴力、堕落した人に対する有徳の人の暴力、悪人に対する善人の暴力、要するに「プロレタリアートの独裁」という概念は、ユートピアの自由そのものがユートピアの自由によって克服されるべき専制政治の一部であることを証明している。この考えの背後には昔から、善人は悪人に対し、よりよき世界は悪しき世界に対して暴力行使の当然の権利をもつか否かという問いがある。十六世紀から二十世紀に至るヨーロッパのユートピア思想はこの問いに明確な「イエス」をもって肯定し、同時に恐怖政治の可能性を原則的に合法と認める。暴力をもって人権を押し通すことは人権に反する。だがこれはキリスト教のみならず、あらゆるユートピア思想、革命、脅かされたデモクラシー、そして最後に反ファシズムのもつジレンマである。

都市ではなく人間を改造する

(略)……十歳から十六歳までの子どもの教育は軍隊式である。……かれらは六十人単位で中隊に分けられる。六個中隊をもって一個大隊とする。……十六歳までは全員が同一の服を者る。十六歳から二十一歳までは労働者の服を、二十一歳から二十五歳までは兵士の服を着用する。……女子は家庭で教育される。……六十歳まで非の打ちどころなく生活してきた男性は、そのときより白い飾り帯を着用する。……殺人犯は生涯黒服を着る。服を脱いだら死をもって罰せられる。」
 ルソー主義者ロベスピエールにとって、完璧な国家とは完璧な制度だけで、あるいはカンパネッラのように円形の壁に刻み込まれた法律だけで達成されるものではない。かれにとって完璧な国家に至る鍵は同盟員たちの完璧な心理のうちにある。永遠の正義の法律は大理石に刻み込まれるのではなくて、人間のこころのなかに刻み込まれるのだとロベスピエールはいう。そのためには人間を幾何学のなかに閉じ込めるだけでは十分でない。人間そのものは、有徳の国民組織体というユートピアが成立するための素材である。表面上の幾何学はこころの幾何学によって補充されなければならない。そしてこれは共和国の祭典と処刑の祭典のなかでの訓練により身に付けさせられる。その目標はあらゆる意志の調和である。有徳の人間とは自らを規律に服させ、全体の調和のために個々のあらゆる情熱を放棄する人間である。

明日につづく。