監視社会と「個人」の消滅

時間のないビジネスマンと金がないホームレスは、191頁の「主体と責任」辺りから立ち読みするだけでもなんとかなるような気がしないでもないと書いてミル。一応最初から全部読みましたと言い訳してミル。
個人や自律なんてのも効用があるゆえのフィクションなので、それより有効な規制があるならそれでヨシという意見を引用してミル。

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

発生してしまった帰結を自分の選択として引き受けるとき、行為者は偶然的・確率的にその行為に追いやられた客体としてではなく、積極的に自由な選択をした主体として立ち現れるのだ。

「法人」という擬制(fiction)
責任を引き受ける時に「法人」が存在する

 大学の土地や建物は現実に存在している。だがそれは「名古屋大学」ではない。大学が移転し、元の土地を売り払っても名古屋大学名古屋大学であり続ける。あるいは、そこで働いている個々の職員も「名古屋大学」ではない。
(略)
 人々が自由であり、自己決定をする主体だということは、一つのフィクションである。だが現在の法は、あるいはそれを含む社会全体はそのフィクションの上に成立しているのであり、またそのフィクションの内部から見ればそれは確かな現実なのである。ちょうど、婚姻した未成年者が実態としては二十歳未満であっても法の世界においては成人として扱われるのと同じように[753条(婚姻による成年擬制)「未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす」]。
(略)
 そもそも法人の行為とは何かと言えば、それはその結果に対して法人が責任を負うということである。私がプライベートで車を運転しているときに事故を起こせば、被害者に対する損害賠償は私自身が行なわなくてはならない。だが職務の一環である運転の際に起こした事故に対しては、法人たる名古屋大学がその責任を負うことになる。これを被害者の立場から見ればその責任を問うことにおいて名古屋大学を法人=法律上の人格を有する存在として認めていることになるし、逆に名古屋大学からすれば、その責任を引き受けるときにその事故は名古屋大学の行為だった、そこに名古屋大学という主体が存在したと主張していることになるだろう。

責任を負うときに「自由な個人」となる

 個々人の側から見たとき、責任を負うということは、そこにおいて自分が「自由な個人」として決断していたと主張することを意味している。
(略)
 「自由な個人」だから帰結の責任を負わなくてはならないのではなく、責任を負うときに・そのことによって私は「自由な個人」になる。ここでは、自由と責任のあいだの因果関係が逆転しているのである。

人格亡きあとのリベラリズム

 功利主義に立脚する法哲学者・安藤馨は、個々人の快楽ないし欲求充足として理解される「効用」の総和を最大化することを目的とする功利主義が、「自由のみならず自律に対しても何ら内在的な関心を有していない」ことを正確に指摘する(安藤馨「統治と功利――人格亡きあとのリベラリズム」)
(略)
 個人の人格は、そこに天然自然のうちに存在しているものではなく、それがあると考えた方が人々の効用が増大する(=気持ちよくなる)から設定されたもの、あると考えられるようになったものであるに過ぎない。となれば、個人の人格を基礎とする自律という観念も、単にそう考えることによってもっとも社会全体における功利が増大するという理由によって正当化し得るものに過ぎないということになろう。もし別の考え方を取ることによってより功利性が増大するのであれば、功利主義はそちらを採用することになるはずだ。そしてそこで再び登場するのが、「アーキテクチャ」である。
(略)
アーキテクチャの権力の発達によって人格ぬきの支配が成り立つようになり、しかもその方が効率がよくて皆で気持ちよくなれそうである。だとすればなぜ、人格とその自由などという古くさいフィクションにこだわらなくてはならないのか?

アーキテクチャ

レッシングは「社会生活の「物理的につくられた環境」」をアーキテクチャと呼んでいる。我々がその内部で行為を行なう空間のあり方それ自体に操作を加えることによって、我々の行動をコントロールすることが可能になるのだ。
[例:ホームレス除けのへんなオブジェとか寝転がれないよう仕切られたベンチ。ここで寝てると罰すると言われることもなく、規制手段を意識することもなく、排除される]

弱体化した個人より

近代のリスク社会が生まれた理由の一つを、弱い個人が・強い力を持ってしまったことに求めるのは不当なことではあるまい。
 だとすれば、その弱い個人の行動をコントロールし、想定外の大被害が世界に対して生じないようにアーキテクチャ的な規制を加えていくことが、むしろその個人を守るためにこそ必要になるのではないか。

著者のまとめ

 だが、それでもなお、人々が自分のことを自律的な個人であると信じていることには相当の意味があるのではないかと、私自身はまだ考えている。
(略)
自由な個人とはいまだなお信ずるに足るフィクションであると(「左派」と安藤には呼ばれたが保守主義者的な固陋さをむき出しにして)なお主張しておきたいのである。