大冒険時代

50の傑作探検記を禿しくツマミ喰い。

1924年ダルフール。夜の砂漠。

本が読めそうなほど満月の光は明るく、北からのそよ風が砂の平野を吹き抜けると、草の葉がおじぎをしてサラサラと音をたてた。コオロギが鳴き、ジュズカケバトがつがいを求めてのどを鳴らし、フクロウがホーホーとうそぶきながら木から木へ飛び移っていた。それが行けども行けども続き、柔らかいラクダの足裏は、夜のしじまのなかでも、いつ砂地に接したのかまったくといっていいほどわからなかった。
(略)
 真夜中過ぎに月が消えてしばらく赤く発光し、そのまわりを淡い藤色がぼうっと囲んだ。それから星が本来の美しさを取りもどし、一時間ほど何にも邪魔されず闇の世界に輝いた。一、二度、流れ星が光の尾を引いて夜空を大きく横切った。六時近くになると東の空がほんのりした薔薇色であふれ、その数分後に太陽がのぼった。

トルキスタン砂漠

死体を運んでいるキャラバンに遭遇したこともある。
トルキスタンで仕事をする中国人貿易商は、こんな辺鄙な土地に骨を埋めるなんて考えただけで鳥肌が立つといい、国境地帯で死んだ場合にその後の面倒をみるギルドに属している。死体はまず仮の墓に埋葬される。やがて肉の大部分が落ちたところで、ギルドが掘り返し、運搬用の棺におさめてラクダに載せる。一回あたり運ぶのは四人である。棺は砂漠を横切り、ルートの端にあるギルドのほかの支部に届けられる。そして最終的にはおのおのの先祖代々の墓地へと送られるのだ。

記録的寒さの12月に出発すると、先行キャラバンが捨てていった

ラクダが生きた雪の彫像となって見送る

うち捨てられたラクダの多くはまだ生きていた。ラクダもある程度弱ると、もはや立ち上がって歩くことはできないが、それでも驚くべき生命力をそなえていて、極寒と荒天のなか、まだかなりの日数を生きていられる。キャラバンの男たちは凶運をおそれてラクダを殺さない。狼でさえ、倒れたラクダには手を出さない。狼が倒すのは立っているか、逃げようとするラクダである。ただ横たわってこちらを見ているならば、狼は目の前の獲物が息をひきとるのを待つのみだ。
 ラクダのなかには、片側を雪に覆われたものもいた。極寒を生き抜いてきたあかしだ。ラクダは自分の体を動かすこともできない。しかし、私たちが近づいていくと、頭の向きを変えてこちらを見ようとする。そのまま通りすぎると、また前を向き、私たちが吹雪のなか歩いていくのを見送るのだ。

モンゴルの王女

に西洋と東洋の対立について尋ねると

私はモンゴルの王女と実に楽しい会話を交わす機会に恵まれた。乗馬靴に青いタイトスカート、珊瑚色の刺繍を少しばかりほどこしたシンプルな白のブラウス。言うことをきかないポニーを乗りこなしてきたからか、髪の毛は少々乱れている。知的で魅力的、客観的な物の見方をするこの東洋の女性はきれいなフランス語を話し、スラング混じりの英米系の英語をあやつる。
(略)
「どうして保守主義を嫌悪すべきものと考えるのですか?」と王女は答えた。「あなたは自分の家や所属するクラブにいつでもよそ者が来ることを歓迎しますか?東洋人は心の中に万里の長城さながらの壁を築いている。
しかもその壁はだんだん頼りなくなりつつあります。壁の向こう側にいる人間は、愛されたいとも、理解されたいとすら思っていない。自分の生活を乱されたくないのです。
(略)
 あなた方の生活は慌ただしく、だから野蛮です。機械のおもちゃの魅力にとりつかれているけれど、実際にはその使い方をマスターしていない。率直さが大事だというけれど、真の理解が生まれるまでは、たとえ形式的なものでも礼儀があったほうがいい。あなた方は世界の理想を牛耳っているけれども、それは私たちの理想とは相いれないものです。
 あなた方は自動車や鉄道、ラジオといった文明の利器を持っている。だから道路も整備されず、衛生状態も悪く、スピードも、言論の自由も、健全な財政も、西洋式の司法制度もないこの国を遅れているとみなす。そして中国人を憐れみます。でもこの国の人々は重要な世界の中心にある天上の王国に暮らしているのです。あなた方の進歩――少なくともそれが東洋に及ぼす影響は、無秩序そのものです。なぜなら精神的な価値がまったく実現されていないから。私たちモンゴル人は自由です。“神のおられる天国の下の良い馬と広い平原”、これが私たちの願いであり、私たちはそれを実現しているのです」

経歴が面白すぎ

アンリ・ド・モンフレイ(1879-1974)

 真珠採り、闇の武器商人、大麻の密売人……アンリ・ド・モンフレイは、そのすべてであると同時に、それ以上の存在でもあった。筋肉質の引き締まった体にサンダルと腰巻、ターバンを身に着けた背教者のフランス人。その姿は紅海のあちこちで目撃された。20世紀最初の25年間、この男は「スエズからボンベイまでの地域で最大の傑物」とみなされていた。
 モンフレイは、自由奔放なブルジョア家庭で育った。裕福な父親は、ポール・ゴーギャンと厚い友情で結ばれていた印象派の画家で、パリのほかに地中海の近くにも家を持っていた。
(略)
エテオピアの皇帝ハイレ・セラシエはモンフレイの暗殺を図ったが、1935年にエチオピアを侵略したイタリアのムッソリーニはこの男の熱烈な信奉者になった。
(略)
 モンフレイにとって、密輸行為は完璧な自由を求める旅の一側面でしかなかった。(略)また、彼は神秘主義に魅せられ、「海、風、前人未踏の砂漠の砂、無数の星をちりばめた遠い空の無限の広がり」に自分を一体化させようとした。
(略)
第二次大戦中、イタリアに協力した罪でイギリス当局に逮捕され、ケニアの捕虜収容所に送られた。まもなく釈放されると、彼は森の小屋に居を構え、狩りをして飢えをしのいだ。戦後はフランスにもどると、ロアール川流域に立つ17世紀の屋敷を買い、ここに腰を落ち着けて執筆と絵画の制作に明け暮れた。どうやらアヘンの原料となるケシの栽培にも手を出していたらしいが、何とか訴追は免れた。モンフレイは家族が所有していたゴーギャンの絵のコレクションを担保に金を借りていたが、後になって贋作であることが判明した。「海の狼」は老いてもなお、計略の種を隠し特っていたのだ。
 アンリ・ド・モンフレイは長命で、95歳まで生きた。一部のフランス人のあいだで、この人物が熱狂的な崇拝の対象になったのもうなづける。