バクーニンの墓参り

1873年頃に執筆された本なのだが、文章が読みやすいせいか、同時代に生きているバクーニンという人が書いてるような気がしないでもない。当然中身は昔の話なのだが、バクーニン・ブログと言われて読んだら違和感ねえというか、100年以上前からこんなこと書いてて今に至るというか、ナニ言ってるんだかワケワケメでしょうか、猛暑のせいにして左に受け流してください。

国家制度とアナーキー

国家制度とアナーキー

新しい国家

[国家による集中化を必要とする]資本主義的生産と銀行投機は、いわゆる代表制民主主義とたくみに折れ合う。なぜならばこのもっとも新しい国家形態は、みせかけの人民の意志によるみせかけの人民による支配を基盤にし、みせかけの人民集会でみせかけの人民の代表者が意志を表わしているような格好になっているからだ。つまり、国家による集中化と、主権者である人民を事実上一部の少数者に隷従させるという、彼らにとって必要な二条件を具備しているからである。この一部の少数者は、人民を知識の面で支配し、人民を代表しているようなふりをしながら、たえず人民を搾取している。
(略)
現代の国家は、必然的に軍事国家であるために、いやおうなしに世界国家となる傾向を有する。

1873年にはもう美辞麗句だったのか

自らの自由と平等をめざしてたたかうことによって、全人類を解放するということを、フランスのプロレタリア層は、早くも1790年代に知っていた。
 全人類の自由と平等、友愛……偉大なこれらの言葉は、いまでこそたんに美辞麗句として使われている面があるが、当時はまさに真情あふれる切々たる言葉だったのであり、その頃の革命歌にはいたるところに見られる。

フランスの終焉

 フランス社会のどの階層にもこうして愛国心が消えうせ、しかも各階層間でいまや仮借ない戦端がひらかれているのに、どうやって強力な国家を再興できるだろうか? だから共和国の老いぼれた大統領がどんなに政治的手腕を発揮してみたところで、徒労であろう。そして政治的祖国のために捧げられた身の毛もよだつ犠牲、たとえば数万のパリ・コミューン参加者に対し、老幼男女を問わず非人間的な殺戮をほしいままにし、さらに数万にのぼる人々をニュー・カレドニアヘと非人間的な流刑に追いやったことは、無意味な犠牲であった。それの分かる日が必ずやいつかは来るであろう。
(略)
くりかえし言うが、一流の列強としてのフランスの役割は今日をかぎりに終わりを告げたのである。文学や王政、共和制の古典主義時代が終わったように、フランスの政治力を謳歌した時代もふたたび帰らぬものとなった。フランスの古い国家基盤がことごとく朽ち果てたのに、ティエールは性こりもなくそれを足がかりに保守的な共和国、つまり共和主義という羊頭狗肉の看板で塗りなおした古い君主制国家をうち樹てようと、やっきになっているのだ。

王政と共和国の違いはただ一点

 現代では、真に国家の名に価する強大な国家となるには、軍事的、官僚的な中央集権体制という強固な基盤さえあればよい。王政ともっとも民主的な共和国との違いは、ただ一つしかない。前者では、官僚が君主をだしにして人民を圧迫し、収奪して特権階級、有産階級の利便をすこしでもふやし、ついでに自分のふところも肥やそうとする。共和国の場合にも、官僚は同じように人民を圧迫、収奪して同じ連中の利便をはかる。一つだけ異なるところは、それを人民の意志を大義名分として行なう点である。共和国では架空の人民、つまり合法化された人民がいつのまにやら国家に化けて、生身でほんものの人民を抑圧する。殴るための鞭があるかぎり、人民の鞭と呼び名が変わったところで、人民はいささかも楽にはならない。
(略)
国家と名のつくものはすべて、もっとも共和的で民主的なものでも、またマルクス氏の想定するいわゆる人民国家ですら、少数の知識人、要するに少数の特権層があたかも人民自身より人民の真の利益を知ったふりをして、上から下までの大衆を支配する点では本質的に同じことである。

属国フランス

 フランスの国家的愛国主義者がなんと言おうと、どんなに請け合おうと、今後国家としてのフランスは、つつましいごく二流の地位に落ち着く運命にある。それだけではない、ドイツ帝国の指導を上に仰ぎ、おためごかしの慈善を甘受しなければならなくなるだろう。つまり1870年に至るまで、フランス帝国の政治に脆拝していたイタリア国家と、ちょうど同じ状態である。
 世界市場のほうがよほどありがたいと思っているフランスの山師たちにとっては、かかる状態はむしろ都合がよいだろうが、フランスの国家的愛国主義者が胸一杯にいだいている民族的虚栄心の立場から見れば、まったく情けないかぎりである。
(略)
[ブルジョアジー]にとっては自国のプロレタリアートを支配していたほうが割に合うのであって、それをやめるくらいならどんな屈辱にも、ドイツの保護下にはいることにも目をつぶるのだ。

イギリスは国家じゃねえ

 だがフランスを除いたら、いったいヨーロッパのどんな国が新しいドイツ帝国に桔抗しうるであろうか?
 もちろんイギリスではない。まずイギリスはそもそもが、言葉の意味を厳密にそしてもっとも新しい形で解釈すれば、国家であったことはなかった。つまり軍隊、警察、官僚機構の中央集権化という意味では、国家ではなかったのだ。イギリスはむしろ特権的な利害関係者を糾合した連合体であり、自治社会であり、当初は地主貴族が権勢をほこっていたが、現在はそれと肩を並べて金融貴族がはばを利かせている国である。

スペイン

スペインは短い間に、不自然なくらい国力の総結集をはかったために、全ヨーロッパの恐怖と憎悪の的となり、暫時の間、ほんの暫時の間にすぎないが、ヨーロッパ社会の革新運動にブレーキをかけるほどの勢いとなった。だがその後、突如として疲弊し、愚鈍と無気力、倦怠のなかに落ちこんでしまった。それからというもの、ブルボンのグロテスクで愚劣きわまりない支配によって、完膚なきまでに辱しめられたのである。そしてついに、ナポレオン一世が無法にも国境を犯すにおよび、ようやく二世紀にわたるまどろみから目覚めたのであった。
 スペインは死んでいなかった。スペインは純然たる人民の決起によって、外国の束縛から救われたのである。

うーん、あまり面白くない気もするが猛暑のせいにして明日につづいてみようか。