ブルマーをはいたことあるかい?

前日のつづき。
[後半バカ炸裂なのであえて弁解しますが、昨夜アップしようとしたらパテナが落ちてたのです。土曜の昼間からブルマーがどうのと書いてるわけじゃないのです、ま、金曜の夜に書いてもバカだけど。]

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

片山に洗脳され「子供らしくない」言葉を操る5組の生徒の姿を描き出す著者。何に苛立っているのか?

演説が終わるのを待って、冷やかし半分にこう質問したものである。
――「私が委員長になったら、代表児童委員会をみんなのものにする」と言いますが、どうして「代表」が「みんなのもの」になるのですか。
 思いもよらぬ質問だったのだろう。望月は、先程までの立て板に水を流すがごとき演説とは打って変わって、押し黙ってしまった。
(略)
「代表委員会をみんなのものに」という言い回しは、中村美由紀も使っており、5組共通のスローガンであることがわかった。当時の私には、その意味がよくわからなかったが、いまならそれが全生研の議会主義批判に基づいていると理解することができる。

[3年時同級だった乾さとみは]
委員長をやるようなタイプではなかった。私はそれをよく知っていたから、彼女が緊張の面持ちで、用意してきた文章を読み上げて委員長に立候補したとき、心底驚いた。びっしりと文字で埋まった下書きには、片山先生のチェックも入っていた。
 私は思わず、乾がそれを最後まで読み終わらないうちに、こう言って冷や水を浴びせた。
 ――要するにやりたいんでしょ。
 乾は、それまでの緊張の糸がぷっつりと切れたように、初めて表情を崩してうなずいた。

自分より知的に劣る奴等が片山教師の薫陶の下、いつのまにやら著者に理解できない言語を駆使していることが不快なのである。彼等が自立して難解言語を駆使していたらプライド崩壊なのである。操られているだけで理解しているはずがない、自分よりバカな奴等が自分の理解できないことを理解できるはずがない(実際理解はしてないだろうけど)。

[3組杉田の稚拙な演説に]
(5組の)空疎なスローガンはすっかり聞き飽きていたので、杉田のいかにも子供らしい正直な言い回しに、かえって新鮮さを覚えた。
 そして杉田にこう言った。
 ――そうそう、僕たちはまだ、十一歳の子供だということを忘れちゃいけないよな。
 これはまことに単純な発言ではあったが、ある核心をついていたように思う。「滝山コミューン」に対して、当時の私が抱いた最大の違和感は、なぜ子供が背伸びして大人のまねをしなければならないのかというところにあった。何か「民主主義」だ、「民主的集団」だ。子供は子供らしくすればいいではないか

子供らしくない受験勉強に励んでいる事は棚に上げている著者。確かに5組の学んだ言語は実社会では何の役にも立たない、一方受験技術は確かに役に立つ。見ろ、トンマな班競争をやっていたソ連は崩壊し、受験で基礎知識を習得した日本は大躍進ではないか。
さて著者がコミューンと称する環境から離脱してどうなったか。慶応通学のため東急沿線団地に引越し。

滝山団地に住んでいたときにはなかった居心地の悪さを感じるようになった。しかも前述のように、団地から通う生徒は慶応でも絶対的な少数派であった。(略)慶応の校風には、七小とは異なり、一人ひとりの個性を徹底して尊ぶ魅力もあったが、そのブルジョワ的な雰囲気になじむことはついにできなかった。
 [推薦を断って他大学を受験](略)
奇妙なことに、75年3月まであれほど鮮明だった私の記憶は、慶応に入学するとともにしだいに曖昧になり、いまでは自分が慶応に通っていた過去をもっていること自体が信じられなくなっている。

慶応で階級格差を思い知らされたショックで著者は記憶を喪失中。大変な抑圧があったと思われますw。

 私もまた、七小の同級生を見下していなかったか、特権意識をもっていなかったかと問われれば、それを完全に否定する自信はない。遠山啓の『ひと』はもとより、七小でもしばしば問題となった当時の受験戦争に対する批判には十分な理由があったが、私はそれに耳を傾けようとせず、4年3学期から四谷大塚に通い続けた。(略)
ソ連や東欧が崩壊し、社会主義が凋落した三十年後の価値観に立脚しながら、1974年の自らの行動を正当化する過ちを犯しているのではないか、という反論である。
「序」でも書いたように、現在の自分が過去を裁く特権的な地点に立っていることは自覚しているつもりである。にもかかわらず、このような反論が正当性をもつとすれば、それはひとえに、私自身の自覚の足りなさに由来するとしか言いようがない。

 慶応義塾普通部に通い始め、東急沿線に住むようになってから、西武沿線で体感した「平等」はもろくも幻想と化していった。74年7月15日に七小の体育館で味わったような一体感は、その後二度と体験することもなく、今日に至っている。

慶応ではじめて下層階級に置かれ、コミューンへの嫌悪に疑問を抱くようになった著者。
受験勉強に邁進する自分を正当化するために全体主義をことさらに強調していませんでしたかと問われたら、どう答えるのだろう。
とりあえず慶応で抑圧した記憶を取り戻した方がいいと思います。「自己総括」wしてください。

  • 創作ダンス天国

僕の小学3、4年の担任は明朗かつ優しい女性教師だった。ただひとつ違っていたのは、奥様は創作ダンス魔女だったのです。ともかく体育の時間はやたらと創作ダンスをやらされた。ちょっと自意識の強い子供にとってあれはなかなかツライ。「風の気持になってえ」とか言われつつフワフワ踊らされるわけです。自分のクラスだけならいいけど、放課後近所で遊ぶ学年の違う奴が同じ体育館で授業やってたりすると、硬直です。当然、授業後、他の学年の子がいたからちゃんと踊らなかったでしょと怒られはしないが指摘されるわけである。多分教師の脳内では「恥ずかしがって、子供らしくない、かわいげがない、若干反抗的」ということになっているのだろうけど、こちらとしては別に反感でも反抗でもなく、ただカッコワルイというだけ。教師の誤解というか無理解は無念ではあるが、まあしょうがない、創作ダンス以外は楽しいクラスなのである。
そんなある日、女教師が恐ろしい提案を。
「朝礼の時に全校生徒の前でダンスを披露します」
な、なにぃ。
それだけでも堪らないのに、駄目押しの言葉が。服装を統一するために

男子もブルマー

隣のクラスの女子のブルマーを借りて男子もブルマー
ありえない、ダンスだけでも嫌なのに、ブルマーとは。
断固拒否である。
最後まで拒否したのは転校生のF君と僕だけ。どうしたんだオマエら、噛み付かないのか、今しかないぞ、今しか。散々ゴネたけど、そこは小4の悲しさ、女教師にひとり呼ばれ説得されたら陥落。
母親に愚痴れば「誰も小学生がブルマーはいてたって気にしないって」とムーディ勝山ばりに受け流され、ダンス前夜の気分はまさに「終わった、オレの人生終わった」、今になれば、何が終わるってんだよって話だが(こんなことを書くとまたフェミ方面から批判がくるけど、小4男子がブルマーに過剰反応してるだけですから勘弁してください。女性蔑視とかじゃないんですよ)。
前夜の絶望が嘘のように、何事もなくダンス披露は終了、他のクラスの奴等に「ブルマ、プププ」などとからかわれることもなく、まあたぶん他の児童にすれば朝礼内の退屈な行事のひとつでしかなかったのだろう。
僕の話はこれで終わり。たいしたオチもなくてスマンソン。一部の男子からは「それでオマエは小4生ブルマーを手にしときながら何もしなかったっていうんだなっ」というツッコミがあるかもしれないが、いやほんとそれどころじゃなかったですよ。それともおれは原さんのように記憶を隠蔽してるのか。あんなことやこんなことしたのか(あっ、でも、教師が一括借り入れて配給だったので、ブルマーの持ち主の名前は確認した。ルックスは可もなく不可もなくってトコ?と書くとまたフェミ方面から非難が)。過剰反応して断固拒否してた僕等二人を見ながら「バカだなあ、こんなチャンス滅多にないぞ」と呟いていた同級生もいたのだろうか。親の歳になった今、小4なんてただのガキである、毛もはえてない唐辛子チンコがブルマーはこうが全くどうでもいいというのが正直なとこ。
結局オマエは何が言いたいのかって、つまりですね、小学校とかね結構ムチャなことやりますよ、それで親の歳になったら正直どうでもいいや、とね。
(そ、そういえば、今、すっかり忘れていたことを思い出した。小6の時各クラス男女一組二学年ピックアップされて学校とは無関係のリクレーション施設に送り込まれて見知らぬ指導員の下泊まりでオリエンテーリングだのなんだのやらされたことがあった。何も覚えていないが、股を広げて一列に並んで「前から仰向けで股くぐり」をやらされたYO。当然女子はスカートだよ。薄目でみることもなくしっかり目をつぶって股をくぐったですよ。もう、そういう、無神経な事をやらせるなよ、と内心憤慨したことだけ鮮明に覚えてるぞ。なんかこんな話ばっかで申し訳ない)

  • それって、ただの林間学校じゃね

原さんはコミューンだと謳いあげるけど、ちょっとテンション高い林間学校だっただけじゃないですかね。そもそも班競争で恥をかいたと憤慨するけれど、小6の恥なんて誰も気にしてないよと母親ばりにムーディ勝山。いやわかりますよ、これが社会全体で起きたら大変だというのでしょ。ただなんとなく著者が意識できていない不純な動機が、気にかかるぅ〜、わけです。
糾弾の恐怖?中学受験しなけりゃ絶望で泣き崩れることもなかったのでは?受験で味わった恐怖は、受験の恐怖であって、コミューン脱出失敗への恐怖じゃないと思います。いやこれは言いがかりだというのはわかっております、ただ、今年の終わり、新興団地に現出したコミューンを鮮やかに描き出した名著とかなんとか、ベスト本選出されちゃうんだろうなあと思ったら、右から左へ受け流せないw。
まあブルマーだのなんだの書いてるバカの話なので、ムーディ勝山でよろしく。