滝山コミューン1974

滝山コミューン一九七四

滝山コミューン一九七四

新興団地の熱意ある民主的PTAが国鉄最低運賃30円の時代に各クラス年間6千円使えるようにした。そして熱血教師が

PTAの改革が果たされ、課外活動が盛んとなる72年4月以降、七小にはしだいに、「水道方式」とともに片山先生が主導する、全生研の「学級集団づくり」が広がってゆく。自由よりは平等、個人よりは集団を重んじるこのソビエト型教育は、偶然にも同質的な滝山団地の環境と適合的であった。

 全生研の唱える「学級集団づくり」は、最終的にはその学級が所属する小学校の児童全体を、ひいてはその小学校が位置する地域住民全体を「民主的集団」に変革するところまで射程に入っていたのである。
 「滝山コミューン」の思想的母胎がここにあった。
 しかも、全生研が影響を受けた旧ソ連集団主義教育は、団地を中心とするソビエト社会の中で発展したものであった。

川崎の全生研教師の談

「集団からはみ出した一匹オオカミの子どもがいてもかまわないという考え方は、私はきらいです。人間は一人じゃ生きられないのですから」「個性といっても、個人主義的な個性じゃいけませんからねえ。画一化をどうすれば防げるかはまだ私にもよく分かりません。今後の研究課題です」

すべてに班競争を行い、係につけなかった班は屈辱を味わう。

掃除当番では、どこを掃除するかをめぐって班ごとに方針をたたかわせ、掃除をする場所を決めた。点検班となった班は、各班が時間内に掃除が終わっているか、用具はきちんとしまわれているかなどを見て回り、どこが「ボロ班」かを判定した。給食をもらう順番すらも、班ごとに決められ、態度がきちんとした班から順にもらう仕組みになっていた。こうした「班競争」が、毎週繰り返されたのである。

片山のクラスだけが三年間持ち上がり

5年までは6年に遠慮していたところもあった5組は、まるでこのときを待っていたかのように、「中心学級」として台頭してゆく。それはまず、代表児童委員会の構成メンバーである各種委員会の委員長を、6年5組の児童が独占するという形で現れた。

この学校はついに、5組によって支配されるのか。それに対して乾は、何の疑問も感じていないではないか。一体なぜだ。どうしたらこれほどまでに人の心を変えることができるのか。

独裁5組の核であった中村美由紀の回想

6年になると、過敏性大腸炎になったり、鼻血が出たり、手の皮がむけたりするなど、ストレス性と見られる症状が慢性的に現れるようになった。特に委員長になってからがひどかった。この体制はどこかおかしいということは私もわかっていたが、口出しする勇気はなく、精神的に無理を重ねているうちに身体に変調をきたしてしまった。しかし表向きは、模範的な議長や委員長を演じていたので、誰も私の変調に気づかなかった。

糾弾

[10月の昼休み出頭を命ぜされた著者]
 朝倉はまず、九月の代表児童委員会で秋季大運動会の企画立案を批判するなど、「民主的集団」を攪乱してきた私の「罪状」を次々と読み上げた。その上で、この場できちんと自己批判をするべきであると、例のよく通る声で主張した。
(略)
 私は自己批判を拒否した。
 代表児童委員会による「追求」をかわし、小会議室のドアを開けて逃げ出した私を、朝倉ら数人が追いかけてきた。私は本校舎一階東端の図工室に走り込み、千葉先生に助けを求めた。後に続いて図工室に入ろうとした児童たちを千葉は一喝し、追い払った。(略)
「追求」を迫られたのは一度きりで、その後は朝倉が私に何か言ってくることもなかったものの、校庭で4年の学級委員から石を投げられたときにはさすがに愕然とした。

これを読むと原武史は「サヨク怖いですね」と主張したいのかと思われるかもしれませんが

 もし私がいま小学6年生であれば、おそらく七小でも行われているであろう「君が代」の斉唱の強制による愛国心の育成に対して、同じように抵抗しようとするはずである。そしてその体験もまた、私にとっての原点として記憶されることになるに違いない。

つまり、集団による個の抑圧が嫌なのだと。
そして著者の恐怖が頂点に達した林間学校にて

脳裏にはすっかり通い慣れた東京電子専門学校の大教室の光景が広がった。その授業を心待ちにしていた児童たちが、たとえ志望校はまちまちであれ、中学受験という同じ目標をもちながら、首都圏各地から自発的に集まってともに学ぶ空間こそ、当時の私にとっては理想の共同体であった。
 それにひきかえ、いまは何と遠く隔たった空間に閉じ込められていることか

そう著者の救いとなったのは「4谷O塚」での受験勉強だったのである。
えー、それでですね、明日はそこら辺に関するいいがかりをつけてみようかと思ってるわけです。