子供ができて身勝手になる親

春日武彦の美しい母 - 本と奇妙な煙

だいぶユルメなのだけど、春日武彦産婦人科から転向した理由が書かれていたので借りてみた。

何をやっても癒されない

何をやっても癒されない

公式理由

障害児を産んだ子どもの母親を精神的にフォローしているうちに、むしろそういったことのほうに関心や適性があることに自ら気づき、そこで転身を決意したといった意味のことを語ることにしていた。
 そのこと自体は嘘ではないが、実は産婦人科医に見切りをつけた最大の理由は別なところにあったのである。

身勝手な親

どれほど沢山の親たちが無分別に子どもを産んでいることか。子どもがいないと親に何か問題があるのではと世間に疑われかねないからとか、(略)
離婚をさせられないための保険として子どもを作っておくのだとか、いずれにせよ子どもを道具かせいぜいバービー人形程度としてしか捉えていない親の多さに呆れてしまったのである。
 こんな親たちの安易な発想や無分別な衝動に加担することに、わたしはつくづく嫌になった。しかも分娩に立ち会った医師として「おめでとうございます」と言わねばならない。どこがめでたいのか皆目わからない場合であろうとも。自己欺瞞も限界に達し、もともと関心のあった精神科へ鞍替えをしたのであった。

子供の誕生で愚かになる親

大人になれない人たちが蔓延していると同時に、子どもを産むことによって、親たちには愚かさを指向するスイッチがオンになってしまう傾向があるようにも思われるのである。それはどのようなことか。子どもが誕生することで、親には「子どもを授けられ、未来へと希望をつないだ家族」というハッピーな物語が与えられることになる。その物語が、覚悟や決意といった能動的かつ責任感に満ちた心構えを立ち上がらせず、あの『悪趣味百科』で揶揄されかねないような「親のファンタジーの延長としての物語」しか招来させないところに、問題の根本があるのではないだろうか。(略)
子どもを産んだことによって自分たちは祝福され特別扱いされ多少のことは大目に見てもらえる資格を手にしたのだという妄想が発生するパターンが、あまねく現代には広がっているのではないのだろうか。
 その妄想と現実との摺り合わせが上手くいかないとき、一部の親は過剰に子どもへのめり込み、さもなければ虐待に近い極端な行動を取りがちとなる。

「心のぶつかりあい」で人は殺さない

 心というものは噛みかけのガムみたいにねばねばしたもので、自分のガムと相手のガムとがくっつくと、いとも簡単に混ざり合ってしまい分離が難しくなり、むりに引き離そうと焦っているうちにますます混交してしまう――そんなイメージをわたしは持っている。つまり自他の区別なんてものは、世間で思っているほど明確なものとは考えていない。
 だから一時期「お受験殺人事件」と称されていた春祭ちゃん殺人事件の犯人が「心と心のぶつかりあい」と語ったことが、非常に奇異に感じられたのである。心がぶつかりあう程にがっちりしていたら、それだけ自我が確立していることであろう。自他の区別がきちんと出来れば、安易に他人を恨んだり、つまらぬ嫉妬などはしない筈である。

躁顔

 鬱病の患者を治療しているうちに、ときたま、回復を通り越して躁病になってしまうことがある。治療を開始したときには、世界の終わりを迎えたような絶望的な顔をしてうなだれていたのに、躁状態となると表情がまるで違う。明るいとかハッピーというよりも、尊大さとイライラと得意気な気分とがブレンドされたような奇妙な顔つきに変貌してしまう。昔、竹中直人が「笑いながら怒っているオヤジ」というのをレパートリーとしていたが、あれに近い印象がある。