悶える沼正三、ヤクザなウディ・アレン

前日のつづき。

平凡パンチの三島由紀夫

平凡パンチの三島由紀夫

三島と関係ない、平凡パンチこぼれ話。
厚生省で大麻

 この記事*1が掲載された後に、平凡パンチ編集者のTが、厚生省に大麻について取材にいった。役人は親切に説明してくれた上に、「ちょうど、いいヤツがあるから、やってみるかい?」と、なにげなく大麻入りタバコをすすめてくれた、と編集会議で報告した時には、なぜか全員大笑いをした。大麻は習慣性が低いことは、厚生省の役人は当時から知っていたわけだ。

橋本治がイラストをあきらめた理由

そのポスターは、すぐ目にとまったが、稚拙なタッチが気に入らなかった。編集会議で、今年の駒場祭には面白いものはない、と報告した。パンチはすでに、風俗的週刊誌でありながら横尾忠則の初期の傑作といわれた「浅丘ルリ子裸体姿之図」を掲載していた。後に横尾作品を回顧する時には、必らず言及されるようになった名イラストである。横尾の密度の濃さからみると、橋本のイラストは、パンチで取りあげるレベルではないと判断した。この時から十年後、ぽくは橋本治に会った。橋本は、「実は、あのポスターを描いた時、最初にパンチが取材に来てくれたら、イラストレーターになろうと思っていた。朝日新聞だったら、イラストをあきらめて、作家になろうと考えていた」と、当時の心境を語ってくれた。橋本の駒場祭ポスターを最初にとりあげたのは朝日新聞だった。

残飯まみれで悶える沼正三

ある午後、ぼくが編集部で電話をとると、「パンチには、出前の残りがありますか」といきなりヘンな事をいう人がいた。
(略)
「三島が絶讃している『家畜人ヤプー』を知ってますか」といいはじめた。「まだ読んでないが、その小説の名前は知ってる」と、ぼくは答えた。「ワタシは、そのヤプーを書いた沼正三です」と、ヘンな人は、自己紹介した。所属している有名出版社の名と職名もいったので、ぼくは信用した。「じゃあ、今、残飯がありますから、すぐ編集部に来て下さい」 三時間後に、編集部に沼正三と名乗る、異常にやせた中年の男が来た。
 ぼくはその間に、知りあいの女優に、SMの写真を撮るから、すぐ編集部に来てくれ、と手配をととのえていた。有名女優はすぐやってきた。スタジオで撮影がはじまった。女優はミニスカート姿で、ハイヒールの細いカカトで、ストッキングを頭にかぶった沼正三の顔を思いきり、踏みつけた。沼と名乗った男は、歓喜の悲鳴をあげた。その写真は、極SM写真として、パンチに掲載した。

ウディ・アレン映画の中の人生

ウディ・アレン映画の中の人生

僕はずっとギャングには興味を持っていた。みんなは映画の僕のイメージから、僕とギャングが結びつかないと思っている。みんなは僕が実際の僕以上にインテリだと思っているんだ。なぜなら眼鏡をかけているし、体格も貧弱だからね。
 でも事実を言えば、僕はブルックリンの下町で生まれ育った。僕には教育もない。一年生の時に大学から放り出されてしまったからね。父親はいつもタクシーの運転手だの、ビリヤード場でハスラーなんかをやっていた。ビリヤード場も経営していた。一時アルバート・アナスタシアの下で働いていたこともある。サラトガ競馬場でノミ屋をやっていたんだ。そうしたことにいつも興味を持っていたし、その感覚も分かるよ。
 僕自身はギャングじゃない。でもかなりの部分、そうした世界の住人だ。僕はロシアの小説を読むより、むしろ下着を着てビールを飲みながらテレビで野球の試合を見るような人間なんだ。まあ、つき合っている女性に合わせるためにこうしたものも読んだりしたけど、本当のことを言うと僕の心はいつも野球場にあった。だからギャングには愛着を感じるよ。僕はマーティン・スコセッシの映画はどれも好きだ。彼はいつもギャングの映画を作るから、必ず見に行って楽しむんだ。彼の映画が公開される時は、いつもとても楽しみにしているよ。

*1:1967年ヒッピー大集会「ヒューマン・ビーイン」の紹介