19世紀の著作権問題

バルザックユゴージュール・ヴェルヌetcを手がけた名編集者の話なのだが、その中から著作権の話。

著作の所有権:ふたつの見解

ひとつは著作物が作家の永久的な所有物であるとする立場であり、もうひとつは、著作物は本来社会的な文化遺産からうみだされたものであり、さらに刊行されてからは社会の共有財産になるべきものであるとする立場であった。バルザックは、当然のこととして第一の立場を主張し、国家は個人の土地や財産の所有権は保護しているのに、精神的な創造物の所有権はみとめていないと訴える。

バルザックの訴え

「19世紀のフランス作家への手紙」で、バルザックは演説口調で、著作権が守られていない現状を、「皆さん、文学共和国において、全体的・個人的利害の大きな問題が揺れている。皆さんの誰もがこの問題を知り、内密に語っているが、公然と不平をいったり、われわれの悪にたいして治療薬を提供しようとする者はいない」と訴える。そして、「法律は土地を守り、汗を流している労働者を守っているが、考えている詩人の作品からは収奪している」と怒る。貴族や銀行家の相続をみとめているのに、精神の労働の「夜と脳」の相続権はみとめない。芸術家・詩人は社会に永続的な精神的な富をもたらしているにもかかわらず、作品が成功するや、作品から収奪する。フランス・アカデミーも議会も著作権の保護には無策である。作家のための組織がないからであると訴える。

1793年の立法では作者死後10年

 18世紀にはいると、作者への報酬が実際的な問題となる。そして(海賊版の横行も目に余るようになったため)、1723年の条例で海賊版の刊行者に体罰が科せられることとなる。さらに1777年の勅令〔8月30日制定〕があって、作者の著作権が認められることとなる(バルザックは、死後もその権利が相続されるという規定を制定した条文を紹介しているが、じつは、この権利をみとめるのは王であって、その基本的な権利を法で定める近代法とはほど遠いといえる)。
 やがて、1793年7月19日の立法によって、やっと著作権が(王の承認によってみとめられるのでなく)法律的に確立されることになるが、同時に著作権は作者の死後10年で消滅すると定められた。これは、(王によって死後もその権利が相続される余地のある)1777年勅令の後退であると、バルザックは指摘する。こうした規定の背景には、著作は社会から、あるいは神から生まれるのであり、したがって公有財産だとする考えがあるが、それをバルザックは否定し、指弾する。著作がたとえ神に由来するとしても、それに形をあたえたのは作者であり、天才であるとし、「考えることと、生み出すことのあいだには深淵がある。そして、天才のみが深淵に降りて、そこから出てくることができる」という。
 こういうバルザックの考え方には、個性と創造についての確信にもとづいた絶対的な著作権の主張という意味で、天才や個性に対するロマン主義的な信仰がみられる。そこには、絶対的な著作権の立場と公有財産の立場の両立をにらんでいるエッツェルと微妙なちがいがある。つまりバルザックは作者の立場のみを主張し、エッツェルは公有財産に対する読者と刊行者の権利をともに主張し、その和合をはかろうとしているのである。

得をするのは出版社のみ

公有財産論も大事だが、それにより得をするのが出版社のみであることは許されないとするエッツェル

1825年にもうけられた著作権法制定委員会による、作者の死後も永続的に遺族にも一定の割合でその著作の印税が支払われるべきというのを骨子にした案が[可決後、一転否決された]
(略)
 エッツェルによると、委員会の議論が遺族への利益の還元を無視したり、あるいは遺族への還元の仕方をあまりに複雑に考えすぎて、その結果、著作権問題は泥沼に落ちこんでしまったという。
(略)
エッツェルは、出版社の良識をも問題にする。たとえば以前に提案されていた作者の死後10年のみ著作権延長可能とすれば、「フランスの同時代のもっとも著名な作者の著書の刊行者は、〔作者の死後〕祖国の野蛮な法律によって丸裸にされ、追いやられた相続人の近くで、その偉大な人物の財産のおかげで、いわばその土地とその所有物を元手に暮らすすことになり」、それは犯罪行為であると非難する。

納本は検閲につながる

著作権を主張するには納本する必要があるが、それは検閲を意味する

1793年7月19日の法令は、それ以前の九部という著作の納付義務を軽減し、「著作を公刊するすべての市民は、著作の二部を国立図書館、ないし共和国版画資料室に収めるのを義務とする。それによって、著者は図書館長の署名入りの受領書を受け取り、その受領書がなければ、海賊版にたいする追及は正当とはみなされない」(第四条)とした。つまり、著作権は著作の納付義務にしばられていたのである。
[納本数は時代によって変動これが事態をややこしくする]
(略)
こうした納本義務は、むろん権力による事前検閲のためであるので納本しないと罰金を課せられることになっていたが、この罰金の額もたえず変動していた。
 しかし、納本によって著作権が発効するので、その点からは作者にとって無視できぬ規定である一方、規定を無視すると海賊版告訴のばあいでも不利となるので、両刃の刃であった。1828年法令での二部納本規定では、一部を王立図書館、一部を内務省図書館としているのに、被告側は1793年法令にこだわり、二部が王立図書館に納本されていないと著作権は発効しない、それも著者自身の手で納付されないと無効と主張し、裁判においても、そのような判例ができていた。そもそも、この規定に従えば、そのような納本が不可能な新聞に掲載される記事や創作の著作権は成立しないことになり、ここで文芸家協会の告訴は困難な立場に立たされていたのである。
 バルザックは、こうした事情をふまえ、なんと該当の新聞を二部納入させ、法律的な著作権を確立してから、告訴にふみきったのである。

ネモ船長

ネモ船長(wikiがまた間違えてるぞ。ポルトガルなんて嘘を書いてるぞ。)

ネモはロシアの圧政に反抗しているポーランドの王子ということになっていた。
(略)
 エッツェルはなぜヴェルヌ案に反対したか、それは、ロシアがエッツェル書店とヴェルヌの上得意だったからである。というのは、ヴェルヌの作品は発表されると、時をうつさずロシア語訳が刊行され、ロシアにはエッツェル書店の大事な購読者がいたからである。また、健全なる娯楽を目指す「教育娯楽雑誌」の性格として、極端な憎悪と復讐に燃える反社会的な人物とその破壊的な行動の場面を避けたいという考えがあったからと思われる。
(略)
ヴェルヌも手紙で、「わたしは、あなたが習慣としているように、原稿にすべてのメモをつけて送り返して下さる方が望ましいのです。そこで、危険な個所を弱めたり、変えたりします」といっているように、エッツェルはヴェルヌの原稿に手をいれるのを習慣としていたのである。いわば、エッツェルはヴェルヌの育ての親であり、教師であり、「精神の父」であったのだ。
(略)
ネモ=ポーランド人説を取り下げているが(略)ネモを奴隷解放者とするエッツェルの設定をしりぞける。
(略)
しかし、エッツェルは連載の土壇場まで、奴隷船を沈める場面をもってくるように、ヴェルヌの原稿にメモを書いたと思われるのは、六月七日に至っても、「あなたのメモを注意深く読みました。すべて結構です。すべて考慮にいれます。しかし、奴隷船の件はわたしには絶対に不可能です」と、ヴェルヌが抵抗していることからもわかる。

ダメ出しから設定・筋書きまで書いちゃうエッツェル

ペダンティズムに見えるのです。退屈だ、うんざりだということばを、わたしは吐きます。ここまでいわないと、あなたは、きっぱりと犠牲を払うことはないでしょうから。
(略)
 ネモの最期については、同じ種類の不都合な努力を減らしたので、たいへんうまくいっています。しかし、ネモが島で起こっていることを知らずに死なない点は重要です。そこで、彼がそれについて内密にもらしているか、サイラスに知らせる必要があります。それぞれに対応したわたしのメモをご覧下さい。でも、わたしのメモを切り捨てたりしないよう、活用していただくよう、無視するのはわたしとの議論のあとにして下さるよう、われわれが声を出して巻全体を読み上げるまえにはそれを抹消しないよう、お願いします。

ユイスマンス

ビジネス上の付き合いがあったユイスマンスの母から息子の小説を持ち込まれたエッツェルは、こんな手紙をユイスマンス

  拝啓、
  あなたの三点の淡彩画を拝読しました。あなたにいうべきことは、手紙に書くより口で申し上げたほうが簡単なので、午前11時においでくだされば、そして、あなたが真実をおそれなければ、あるいは快い点も不快な点もある率直な意見を少なくともおそれなければ――まじめに話し合いましょう。わたしは、あなたの母上をたいへん尊敬申し上げております。そして、そのご子息がよい方向に歩まれるのを助けることを、義務のように見なしております。しかし、まったくの率直さを欠いてお話しするということはできません。したがって、讃辞ばかりでないということを、あらかじめお知らせしておきます。敬具。

 脅しの利いたこの手紙を読んで、びびらない若き文学志望者がいようか。

ユイスマンスへの酷評の抜粋

騒々しい調子だけをもとめると、ことばはかえって貧しくなる――怒鳴るより、歌う方が豊かで変化に富むものである。
  あなたは怒鳴ろうとしている――十頁もかけて、あなたは自分自身の叫びを発するのみである。
 そしてあなたは、あまりに単調になるまいとするあげく単調になっている。
(略)
  あなたはパレットを手にし、絵の具もたっぷりもっている――だが、描くべきものはまだ何ひとつない。

 エッツェルは自然主義に厳しくあたったが、それ以上に、やがて到来する世紀末のデカダンスの美学をほのかに予感させるユイスマンスの表現に非寛容であったことがわかる。ことばをかえれば、これこそエッツェルがエッツェルであることの証左であるのかも知れない。