そうらそうよ治療

やばい状態の時に赤瀬川原平がそのようなことを書いていたなと思ったけれどドレだったか思い出せず、結局、それに近い事が書いてあったコレを。やばい時にはやばすぎて読めなかったので、ようやくいま引用するわけだが、「アレッ、よくなってきた」とか「オッ、快癒?」とか浮かれた次の日あたりからまた下り坂になるのが、不思議だわ。

全面自供!

全面自供!

「そらそうよ」主義でいこう

 寝ようと思うと、意識がいろんな妄想に溶けていって、心臓がどきどき変になってくる。じっさいに不整脈があって、はじめは心臓が止まるんじゃないかとびっくりした。それが不眠のきっかけでもあったんだけど、でもあとで聞くと不整脈なんてよくあることなんだってね。そんなことを気にするのは、やっぱり自分に際があったんだな。やることがなくなっていたから、そういうものにつけ込まれたんだよ。とにかくそれで眠れなくて「ああ、もういやだ」と思って電気をつけるんですよ。電気をつけると、消しゴムは消しゴムだし、コップはコップだとか、ちゃんと常識が確認できてね(笑)。「ああ、別に世の中、普通じゃないか」と確認して。それで安定させて、また、消して寝る。つけたまま寝るというのは、何故かできなかった。ケジメがつかないと、かえって無際限になる怖さというのがあったのかな。
 ところが、しまいには、その周期が短くなる。で、最後は電気をつけても、まだそのまま怖いの。あれはいまだに忘れられないね。とにかく夜眠れなくてたまらずに電気つけたのにね、箱の角とか、棚の角とか、とにかく物の角が全部こっちを見てる。見すくめられている。ぞっとしたね。ちょっと説明できないけど(笑)。
(略)
 「これは、もうまずい」と思って、とにかくじっとしていると、そっちのほうに吸い込まれる感じだから、本能的に、自分の位置をできるだけそらそうとした。じっとしていると、自分がその何か中心に吸い込まれそうだから、何とかその中心からずれて、トイレに行ったり、靴を揃えたり、鉛筆を削ったり、とにかく瑣末なことを、普通の日常のどうでもいいことを一所懸命やって、その場はなんとか逃れた。それがピークでしたね。

「そらそうよ」という言葉に関するどうでもいい話は以下に。
kingfish.hatenablog.com

  • オマケ

おまけというか、上の話の方がおまけで他が面白さテンコモリなのでありまして、とりあえず、例の千円札事件のとこだけチラリと紹介。
千円札を模写してるうちに

作品の対象として、お札という存在を考えた場合に、やっぱり複数であることがお札の力でしょう。「これは拡大して描くだけでなく、印刷しないとダメだな」と考えたんですよ(笑)。
 ――ストレートにニセ札を作ろう、犯罪的なことをやろうというのではないんですね。
 そういうのは全然ないんだ。入口が違う。普通はそう考えるんだろうけど、ぼくの場合、別なところからお札の世界に入っていったの。そうすると、一種の純粋思考というのかな。お札を模写するとして、一枚だけだと、いわゆる芸術作品になりかねない、という感じでね。お札の構造そのものを作品化するには……いまの言葉でいうとそういうふうにいえるんだけどね。やっぱり印刷して、複数形態というか、印刷ってのはオリジナルじゃなくて増殖できるっていうか、増殖の基礎みたいなもんですよね。それをオブジェ自体が体現してなきゃいけないなと思って。
 で、そこのところで、初めて「お札を印刷すると偽札になるな」というのを考えるわけですよ。でも、そういうところから入ってるから罪悪感はなくてね。恐怖感もない。

当時、ぼくは人間の個性とかオリジナリティだけをありがたがる芸術の風潮が何か嫌だったんだな。そこのところで、私有財産の破壊とか、当時の左翼思想が重なるわけで、それをそのまま機械的に、観念の世界にスライドさせて考えていって、その後押しで印刷したのかもしれない。