荒縄ストーリー800

まともな本が読めないのは騒音のせいにします。にゃー。
高橋源一郎の対談から。
小説は書いてみないとわからないので、評論家も一度は書いてみるべき。

「これは小説ではない」

っていうことがわからないと「小説であるもの」もわからない。

これは結構反発を買う可能性があるんですけど、もうぶっちゃけそうなの。あのね、わからないですよ、小説は書いてみないと。
(略)
詩は書かなくてもわかるような気がするんです。そう言うと詩人に怒られるんだけど(笑)、小説に関しては書かないと絶対にわからない部分があって、そこが重要なところだと思うんです。逆に言えば、そんなに大したことない小説家でも、小説についてはよくわかる部分がある。それは小説が持っている構造の特殊性だと思うんです。
(略)
三作目が『ジョン・レノン対火星人』になったやつです。「あ、こういうのが小説だな」ってそのときに思ったんです。それは別に誰から教わったわけじゃない、どこかに「これが小説です」って定義が書いてあるわけでもない。でもある瞬間から「自分は小説を書いています」っていうふうになると思うんです。これが小説家が小説をわかるということだと思うんです、とりあえずの出発点として。だから評論家は失敗作でもいいから書いてみるべきだと(笑)。「これは小説ではない」っていうことがわからないと「小説であるもの」もわからないですよね。

「書かされちゃった小説」

やっぱり小説ではないものをまず書いてみる必要がある。「変なものを書いたな」、社会的な、共同体的なイメージとしての小説をなぞってしまった、つまり「書かされた」といういやな感じを味わわないと、じゃあこれではないものはどこにある、っていうところに行きにくいと思う。でも「書かされちゃった小説」の中でも出来のいい悪いはあるわけです。そして、「書かされちゃった」出来のいいものが新人賞に一番通りやすいんです。実際に小説家としてデビューしたあとでもそういうリスクをおかすわけだけど、それはなかなか大変だから、そんな試練はデビュー前にやっておいた方がいい。

評論家とのちがい

基本的に小説家っていうのは他人の小説にはやさしいんですよ。どういうふうに書いているかがよくわかるから。うまくいってないところは「あ、ここはうまくいってないんだね」で通りすぎちゃう。逆にうまくいっているところは「これはよくできてる」って思う。いいところを見つける気で読んではいるからね。新人賞の選考会で評論家が悪いところを指摘しても「いや、ここはそれでいいの」って(笑)。
(略)
作家は小説を単独で読んでいくでしょう。「これ(この小説)」は「これ(この小説)」以外の何ものでもない、ましてや何かの劣化コピーではあり得ないからね。何かより出来が悪いって言うけど、そもそも違うものだから。評論家の場合、「あれを100点とするとこれは70点」っていう論じ方をするでしょう。

「私」が「彼」になってる小島信夫

小島さんって「私」がいつの間にか「彼」になっているでしょう。あれっていい加減っちゃいい加減ですけど、すごく厳密と言えば厳密なんですね。普通「私」ってナレーターなんだけど、その場所に来たときにはすでにナレーターとしての「私」ではなくて、実験材料としての「私」になっている。
(略)
僕たちは小説とか評論だと現実をわざと小さく整頓されたものとして「『私』だったのに何で『彼』になってるの?」って思ってしまう。普段は「私」が「俺」になったり「彼」になったりしているのにね。

ストーリーが書けないわけ

要するに小説を読むリアリズムで言うと「これはストーリーです」というような、読み方を実はしてないんですね。「こいつは変なヤツだな」とか、「うわ、こんなことが起こるのか」って言うけど、そういうのは全部後づけなんだよね。つまりストーリーがありますっていうのも空想じゃないかと思う。実はストーリーなんて存在しないんだよ(笑)。
(略)
「分析した結果こういうストーリーですよ」ということで、そんなものを実際は、誰も読んでいない(笑)。だからこそリアルなものなんだよね、小説は。たぶん人間は存在していると思うけど、ストーリーはない……って考えたらどう? あともう一つ、何かを書こうとする場合に予めストーリーを考えるということがあるでしょう。こうなってこうなる、って。でも実際、小説は読む経験だから、どんな小説でもストーリーとして取り出せないはずなんだよ、っていうことでストーリーが書けない言いわけです(笑)。

あらすじーの、800じーの

小説ってたぶん学校で読まれてあらすじを書かされる運命にあるとは思ってなかったんだよ、漱石とかさ(笑)。でも実際にはそういう目に遭うということと普通に読まれるということはリンクしている。ただそういう読み方を小説は実は許容していた部分があって、小説家も半ば無意識に加担して、「もしかしたら俺800字で言えるかも」っていうものとして小説を書いてなかったとは思わない。それは小説家が無意識のうちにいわゆる社会的コードに沿って――小説も社会の中で生きているから――それはやっぱりストーリーとかテーマとかっていう言葉になっていくわけで、そういうことに評論家なんかも加担しているわけだけど、それがいかん、それはやめましょうと言ってるわけです。