恐怖!意味アリゲーノ/高橋源一郎

柴田元幸対談をチェックし忘れていたのですが、それが一番面白かったとは。
文藝表紙
コードに則った「ふつうの小説」を見ると、裏のベニヤ板が気になってしまう場合の三つの選択

(1)わかっているけれども面倒臭いからコード通りに書く。
(2)コードのあるものは書けないので書かない。
(3)「コードがあるよ」と書く。
この三つしかないんです。そして、その選択は、どれがどれより優秀ということはないと思うんです。僕は「コードがあるよ」と書くのが高度なテクニックだとは思わない。ただ、「これはコードじゃないか」と指摘する作品が、もしほかにほとんどないとしたら、誰かがそれをやらないと気持ち悪いだろう、とは思うんですね。

文体私有化拒否。小説という自己神話化。

死ぬまで自分の文体を持たないようにしたいというのが、僕のひそかな願いではあるのです。これは僕の、読者という立場からの好みでもあるんですが。近代文学120年の歴史で、結局何がいちばん尊ばれたかというと文体です。更に言うと、「これはこの人の文体だ」という私有された文体なんですね。テーマでもなく、内容でもない。ただ、僕は、文体は私有されてはいけないのではないかと思っているんです。文体の私有化とは、要するに「ルック・アット・ミー」、「私を見て」ということです。だから「私小説」と言うんだけれども、それでは何を見て欲しいのかというと、文体を見ろ、と。そこに「私」がいると言っているんですけれども、「私」としか書いていないですから、どこにいるかというと、文体の中にいるということになる。実際には、いないんですけどね(笑)。

中原昌也村上春樹

中原君の小説も村上さんの小説も、おかしいんですよね。中原君と村上さんの小説は似ても似つかないんですけれども、そのイカレ具合は実はよく似ている。ふだん我々が目にする小説とは全く違っています。文学というものが、自己破産することなしに、原理的な「自由」を実現することができるとしたら、ああいうものになるのかもしれないという気がします。

意味ありげに見えることのコワサ

柴田 漱石とか鷗外も、出てきた時は変だったんでしょうか。
高橋 そう思います。ただ、その「変」の具合がいまとはもちろん違うわけです。鷗外や漱石は規範を知っていたわけですね。つまり、イギリス文学やドイツ文学という、ある種ガチガチのコードでできた世界を知っていた。コードのこわさを知っている人たちだったんですね。二葉亭四迷もまた別の意味でコードをよく知っていました。
 いま読むと当時の日本の作家は、すごくはしゃいでいるように見えます。言文一致体を手に入れて、「こんなにすごいものが書ける」とはしゃいでいる中で、何人かが「はしゃぐな。これはこわいことだよ」と警鐘を鳴らしていた。その意味合いはいろいろあったと思うんです。それは一言で言うと、「実力以上のことを書いちゃだめだ」ということです。つまり、「ニッポンの小説」が可能とした言文一致体、その散文を使うと意味ありげに見えちゃうんですね。それが作家たちを魅了した理由だったと思います。自分で真剣に考えていないのに真剣に考えたように見えてしまう、極端なことを言うと、さっき言っていた「嘘なのに本当に見える」ということにつながると思うんです。そのこわさを、その人たちは知っていたのです。

ゆるゆるウッチー対談の唯一の収穫は高橋源一郎村上春樹について語ったこと。

『群像』に応募しようと考えていた時だったから、『群像』を立ち読みしていて、新人賞受賞作だった「風の歌を聴け」の一ページ目を読んでそのまま読むのをやめた覚えがあります。これは読んじゃまずいと思った。

五月七日に新人賞が載る六月号が発売だった。それで忘れもしない79年、横浜の有隣堂で一ページ目をめくって読んで。たぶん僕はそれを読んで、世界で一番衝撃を受けた人間かもしれない。僕はその前に十年分読んでいて新しい作家なんか誰もいなかったので安心してたんです。それが一ページ目を読んで「……いたよ」って(笑)。

あの日のことは忘れられない。なぜかというとそのちょっと前に『さようなら、ギャングたち』の全体像も浮かんでいて、「しめしめ、これで世界は俺のものだ」っていう感じだったんです。ところが一ページで、「あ、この人はわかってるな」と思った。同じ学年かと思ったら少し上だったんだよね。「僕より先にやるなよ。まずい、やめてくれよ」って思った。僕は何十年小説を読んでてそういう思いは一回だけですけどね。

「この小説の価値がわかるのはたぶん僕だけだろう」とか、「この人はこれから何十年も書いていくんだろう」とか。「近いところにいるけど方向が全然正反対なんだよね」とかいろいろなことを考えながら、でも「邪魔だな」って思いました。

それに比べて龍さんの方はホメ殺しで瞬殺。

きちんと読んだけどあまり才能豊かなんで、まずその点で自分と関係ないと思った。そういうのって全然安心して読めるんだよね。自分とかすらないから。

  • オマケ

野村克也 全つぶやき

野村克也 全つぶやき

図書館で読んでサイレント爆笑。
ノムさんキャンプにヴァーチャル参加気分。
「どうでもいいや」とか「さわやかな方向に」といったあたりがもうたまりません。

(湯舟の復活なるか、をテーマにさんざんしゃべった後、いきなり報道陣を見回して)
 みんな、まだ冬服だね。今の時期は、何を着たらいいのか、わかんないんだよね。
(どう答えていいのかわからない報道陣に靴を見せる)
 どう? この靴。ちょっと変わってるだろ。昨日、買ったんだ。
(と報告されて困る報道陣)
 世界に1つしかない、と言われてね。そういう言葉に弱いんだ、オレ。5万円。高いか、安いか。
(どうでもいいやと思うがそうは言えない報道陣)
 5万は高いな、と言ったら、4万になっちゃった。すっと買っちゃいかんね。
 (そうか、1万円浮いたのがうれしかったのかと納得しつつ、さわやかな方向に話題を変えようとする報道陣)

ちょっとせつない話をしちゃって、照れくさくなって、怒りの草魂モードにギアチェンジするノムさん、燃えー。

 南海時代から、巨人はうらやましかったなあ。環境がいい。教えてくれる人がいる。それに比べて南海では、だれも何も教えてくれなかった。全部、自分一人や。
 王には荒川さんがいた。一度、ワシも荒川さんの家に教えを乞いに行ったことがある。すると、「しばらく待っていれば、王が来るから」というんで、待っていた。王が来て、始まった練習を見ていると、刀を持って紙を切っているんや。まさに一球入魂の世界。
 あれを見たとき、この男には追い技かれると覚悟したよ。ワシはスイングを2、3回やって、恥ずかしくなってすぐにやめた。昔からおんなじや。金持ちはますます金持ちになる。貧乏はますます貧乏。仕方がないな。しかし、自分だけがよければいい、というのは腹が立つ。許せない。貧乏人のど根性を見せたるわ。