文豪たちの大喧嘩・その3

前日のつづき。

文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛

文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛

人を批判するときだけハルトマンを小出しにせずに全部訳してみなさいよジャブ。そして

 ハルトマンに対する樗牛の「歴史的批評」は峻烈をきわめ、美学者としてのハルトマンには何等の「創見」なしとの断定に至った。そもそもハルトマンが前人未発の説なりと強調する部分は、精査すると悉く前人の説を踏襲し、多少の補綴を加えたに過ぎぬ小細工ばかりである。

ハルトマン一本槍の『審美綱領』を批判

 依然として高飛車にハルトマンの「最完全」を、振り翳して止まぬ鴎外の独善を嘲笑する。本書の編者はキルヒマンとハルトマンとを、比較的に研究した事が一度でもあるのか。若し未だなれば遅蒔きながら今からでも、自説の公平を期する為に着手を望む。キルヒマンだけでなく本書の編者は、マーシャル、ギヨー、近くはサンタヤーナ等々の研究と、ハルトマン美学とを対比した事があるのか。謂わゆる完全とは比較を経た上で、初めて可能な評語ではないのか。鴎外が比較研究の委曲を尽くしたのち、我が蒙を啓かん事態を望むや切と、樗牛は語気を強めて結んだ。

追い詰められた鴎外、まともに樗牛に反論せず。
新聞上にて、最近ハルトマンにケチをつける奴がいるが、文句があるなら独文にして本人に送れや(#°Д°)ゴラア!!
せめて大学紀要に載せろと。
ところがそのころ紀要は殆ど出ておらず、樗牛の「『審美綱領』を評す」が掲載された『哲学雑誌』『帝国文学』がその機能を果たしていた。そんな学界事情を知らぬ新聞読者相手に、紀要にも載らないハンパな批判は読むに値しないとセコイ言い逃れ。
 だいたい今の日本でハルトマンを熟読してる人なんて殆どいないんだから、日本でハルトマンを論評することが無意味なのだあ、とスゴイ開き直り。
 さらに誤植による「誤脱ある文章」を根拠に見当違いの批判をするケチ臭いアラ捜し屋樗牛と新聞読者に印象付ける。
高飛車に出て、小者にからまれている大物をきどるメダカ戦法。

 樗牛の正攻法から体をかわす為に、鴎外が工夫し採用した防衛戦術は、こののち長く我が国の各界で、既成の社会的威信および名声を頼りに、実質的な論争を回避する張り子の虎たちが、常に愛用した虚仮威し様式の原型となっている。まず提起された問題が本質的な重要性を持たぬと、有無を言わせず劈頭から貶価する格好を示し、従って真っ当に相手と渡り合う意志がないと早い目に公言して置き、その上で自分に都合の好い些末事を捉えては、観衆目当てに身振り大きく独善的な陳弁を試み、最後の仕上げとして相手側の動機に、嫉妬や怨恨や権勢欲など悪意に満ちた、卑劣な情念の蟠りが潜むらしいと仄めかしつつ、自分は争気を去った太っ肚の静謐な諦念に住して、小人の客気を憐みつつ静観する旨を鷹揚に呟いてみせる。

  • 逍遥vs樗牛

樗牛の論文を最初に採用したのは『早稲田文学』、逍遥に見出してもらった恩が樗牛にはあった。
逍遥の戯曲を職人芸だけど時代遅れじゃねえと樗牛があれこれ批判するも、ことごとく逍遥に反論され、退却。
理論家としては駄目だが、劇作家としては素晴らしいと、見事に掌返し。

『牧の方』を解剖しそこねた失敗に懲りて、高山樗牛は劇作家としての坪内逍遥に、掌を返して早速の鄭重な処遇を始めた。それでも古典に擬し得る理論の書、『小説神髄』の功罪を論じては居丈高に、『神髄』が文学の絶対的独立を唱え、実世間との関係を遮断したゆえ、明治十八年以来の我が文壇は、極衰の萌芽を内蔵したのであると、写実主義専一偏向の責任を逍遥に帰する。すなわち理論家としての逍遥は大幅に貶価し、だが十余年を経た現今の実作者としてなら、逍遥の奮闘を顕彰するという作戦である。
 逍遥に低姿勢で謝った翌月から、樗牛は恬然と応援歌を小刻みに呟き続けた。

そして逍遥の戯曲いいよねと繰り返し、あげく「逍遥を拠り所に、腑甲斐なき劇文学界の一般へ叱正を始めた」。逍遥の威を借る樗牛。
そのくせ逍遥が義理で『日本教育』に寄稿した倫理教育に関する文章に噛み付く。
そこからなんだかんだ、樗牛がからむも、『太陽』に逍遥が送った反論分を分載するなど実にセコイ手口

当代論壇の大立者ふたりが、総合雑誌という新興の檜舞台で熱演したのだから、その限りでは樗牛の企画が功を奏し、演出効果満点であったとも言える。
(略)
両者とも自説に立て籠って防衛と補強に努めるのみ、しかも樗牛は反則的な対策を厭わず、逍遥は隠忍自重しながらも不快であったろう。外見上は役者を揃えて華々しい触れ込み、しかし内容は平行線を突っ走るばかり、結局この論争が残した唯一の沈澱は、樗牛に対する逍遥の強く密かな、打ち消し難い不信感だけであったかも知れない。

鴎外・逍遥両巨頭に喧嘩を売りつつ、帝大人事ボス教授にはしっかりゴマをすっていた樗牛に朗報。
留学の後、新設される京都帝大初代教授に。

然るに正式の決定が下ったまさに其の時、宿痾の病状が俄かに進行して、樗牛は静養を余儀なくされる

白い巨塔」財前なのか、樗牛。享年32歳。


えー、いい加減メンドーになってきたので、テキトーに飛ばします。
死の一年程前、樗牛の「美的生活を論ず」
簡単に言うと、「道徳なんか知るかよ、人生、セックスが一番だろ」とミヤダイ的挑発と世間にとられた。

 樗牛が恐らくは計算のうえ意図的に、「本能」という相当に大胆な語彙をキーワードに用い、当時に在っては何としても刺激的すぎる文脈で、指示したかったのは広義の人間性、つまり既成の道徳および知識に抑制される以前の、内発的な「人性本然の要求」の総体であった。
然るに殆どの論駁者が一致して「本能」を、明治期に特有なおっかなびっくりの磁場に引き寄せ、狭義の「性欲」だと頭から早合点してしまった
(略)
「美的生活を論ず」は此の時期の樗牛にとって、人間論であり人生論であり生死覚悟の説、すなわち思考の全域を収斂する原論だったと読み取っても、あながち見当外れではないであろう。

死を前に語ったのに「セックス推奨野獣系」と誤解される。
ホイットマンに共鳴して美的生活を唱えたのに、ニーチェ信者だと誤解される。なぜその誤解を解かなかったか。仲間の登張竹風が「美的生活とニイチエ」なんてのを書いて樗牛を援護したから。

竹風は今や登り坂の新進の評論家しかも日本一の二ーチェ学者として遇されている。樗牛とは『帝国文学』を足場とする意味で同志の間柄である。その意気軒昂たる少壮学者が、ニーチェに拠らない美的生活論を、ニーチェに基づく論旨であると勘違いしているぞと、筆者の樗牛から捩じ込まれる局面になったとせんか、竹風の面目は丸潰れ、どうにもこうにも立つ瀬がなかろう。致し方ない。樗牛は黙った。これから始まる大騒ぎに、筆の立つ樗牛が一語も発しなかったのは、何か言えば、極端な場合を考えるに、竹風が失脚する恐れ無きにしも非ずであるからであった。

そこに逍遥。ニーチェを貶せば樗牛を論破できると。

 しかし坪内逍遥は、復讐の念に燃えている。歴史画論争に於ける逍遥論文の、『太陽』誌上に於ける不誠実、いや寧ろ逍遥に恥をかかせようとした樗牛の策謀を、さすがに遺恨として胸奥に憎悪の念を持った。そう考えなければ次なる逍遥の樗牛批判が、かくも激しく執念深い罵倒となった由来が解せない。明治文壇で最も紳士的に万事控えめであった逍遥が、生涯で珍しくただ一度だけ、阿修羅となってなりふり構わず、樗牛を文壇から葬り去ろうと企んだのである。逍遥は必殺の剣をふりかざす。逍遥は今や情け容赦もなく樗牛を火炎りに処すべく立ち上がった。

文学新聞と謂われた頃の読売新聞一面トップetcで24日にわたって攻撃。

これだけアカラサマな個人攻撃を、読売がバックアップしているのだから、逍遥は言いたい放題書きたい放題である。文学新聞だから読者は×××が誰か、みんな始めから知っている。これだけ罵詈雑言の個人攻撃を、日本一の晴れ舞台で、二十四日書き続けて憂さ晴らしする、そんな機会を与えられた者は、もちろん古今に絶無である。

うわあ、もうこれでやめます。疲れた。明日、できたら、追加すると言って、やったためしなし。