尾辻克彦「恐縮」

出口

出口

これ→「https://b1.alt-r.com/zc/view.php3?m=1&n=1025&p=16」を読んで、尾辻克彦の「恐縮」が頭に残っていたせいではと思って(実際は無関係)、TBもコメ欄もないし、ついつい挨拶抜きで、小説の紹介と引用文をメールしたわけです。

太国の人民が消えてしまった。
(略)
戦争もしないで、一つの民族が消えるわけがない。
縮んだらしい。
縮んだ?
(略)
消えてなくなったわけではない。消えてある。
というかその場に縮んで消えながら、人口はなおも増えつづけている。

そしたらメールに返事がきて、エントリが追加されました「https://b1.alt-r.com/zc/view.php3?m=1&n=1025&p=20」。
(細かい指摘をすると、「大国」じゃなくて「太国」です)
電子顕微鏡を抱えた国連調査隊が太国を調査。
「縮小ながら増殖する」という不気味さ、人が存在しない光景に厖大な人が潜んでいるという不気味さから、大数的人口増加がもたらす意識の変化に話が及ぶ。

「いや、われわれの考えではそうだ。しかし人類がそこまで縮めば、生活のシステムも大きく変っているはず。人生の質も大きく変っているはずだ」
「人生が」
「そうだ。人生というのが一人一人の中にだけ閉じてあるとは思えない」
「閉じてないというと、人生が開いて」
「何しろ人口数がはるかに桁を超えた大数的な世界だから、人生観というのも個人の枠を超えてひろがり、もっと複合的なものになっているのではないか」
「あっ」
「どうした」
「いや、子供用の靴が片一方……」
(略)
「あれです、きっと」
「あの蚊か」
「そうです。さっきから蛙の背中に留っていて、焦点はちょうどその蚊の目玉のところに合っていた」
「そこで靴を見たのか」
「はい」
「本当に子供用の靴だったのか」
「はい。赤い革でステッチのある、たしかにそう見えたんですが……」
(略)
しかし子供用の靴のもう片一方はおろか、人の生活のコンセキも見えない。モニターには蛙の外皮の細胞分子がえんえんと並んで映し出されている。蛙は何を思ってかじっとしている。上空を雀の一団が群をなして飛んで行った。太陽が少し南に傾いたせいか、遠くの安定河の水面が光を受けて、そこに太陽のカケラが一つ落ちたみたいに、キラキラと輝いている。

『油絵』
写生旅行に出て色々考える

 そんなわけで油絵には憧れていた。
 西洋の合理主義にも憧れていたんだ。一個一個分析していく方法を、手品の達人みたいに思っていたんじゃないのかな。
 絵でいうと、顔があり、その凹凸に光が当たり、陰が出来る。それをそのまま写し取っていけば、ふだん見ているのとそっくりな絵が出来る。手品みたいだ。
 そこのところで畏敬されたりするのだから、洋画は俗っぽいといえば俗っぽい。
 エンターテインメント。
 でもやっぱり物質って魅力なんだ。物の魅力。西洋の絵は物の絵なんだね。カメラが欲しい、と同じような気持で、油絵に憧れる。

写生の快感を描写していて

 こんなことばかり書いていて飽きてしまった。文章で書いていても油絵具をいじる快感には届かない。ついつい説明しようとするんで、そうすると感覚が遠ざかっていく。でも説明しないわけにもいかないし。
 説明というのは一種の病気だな。(略)
 文章だけに限らない。絵にだってあるんだ。説明病みたいなの。久し振りに写生なんてしてみると、それがよくわかる。その点をちょっと考えてみよう。
 現場では結局描き上げられなかった。空を塗ったあと、山肌を塗った。中心はやはり八ヶ岳のてっぺんの雪だから、まず雪の上の空を塗って、次に雪の下の山肌を塗ると、何も塗らないキャンバスの白地がだんだん雪になってあらわれてくる。それをもっと狭めて、雪の隙間の皺々を塗り込んでいく。山の襞だ。キャンバスの白地が追いつめられて、ますます雪になっていく。
 なっていくのはいいんだけど、雪になり終るとつまんないんだな。雪にはなったが、ただそれだけのことで終ってしまう。これは雪ですよ、ということだけになって、そのほかには何もなくなる。
 じゃあそのほかに何があるんだと言われても、それが何とは言えない。わかってはいるけど言えない。言葉ではわからない。

言葉で追うと隠されるもの

別に隠してはいないけど、隠されてしまう。言葉で追っていくと隠されてしまう。


――何が隠されているんだよ。八ヶ岳の雪の中にそんな大変なものが隠されているのか。
――いや、雪にこだわることはないんだけど、とにかくね、キャンバスの白地を残しながら雪にしていって、これは写生だからどうしても雪にしようとするよね。でもそれが雪になるにつれて隠されていくものがあるんだよ。
――じゃあ写生なんてしなきゃいいじゃないか。八ヶ岳の雪なんか描かずに、その雪に隠されてしまうものをはじめから描けばいいじゃないか。何言ってる。
(略)
――あのね、雪の説明になっちゃうんだよ。雪の説明だけになって、あとは何もなくなる。説明だけなら、別に描くまでもない。
――描くも描かないも、そんなことは本人の自由。人に話すまでもないことだよ。
――そうなんだ。話すまでもないし、話せないんだ。
――じゃあ黙ってろ。
――いや黙る必要はない。話したって話せないんだから。
――あのね。
――いやいや、もういい。こんな話やめようやめよう。


つい記録してしまったが、こういうことになってはしょうがないんだな。

旅行から帰ってきて、家で完成させる

どうも落着きすぎちゃって、冷静になりすぎちゃって、絵がデザインになる。
 おまけに写真を見て描くんだから。
 写真だっていいんだよ。写真というのは風景をあらかじめ平面にしてくれる。それにまた色や調子の見え方を、どれか一つに決めてくれる。だからパッと撮った写真で好みのがあれば、風景画のヒントとしては有益なんだ。有益だから逆にね、それを見て描く自分が冷静になりすぎる。計算ができすぎてしまう。というところでデザインになるんだな。色も調子もバランスよく、気のきいた感じにはなるんだけど、それだけであとは何もなくなる。そこのところが、説明病の症状とちょっと似ている。ちゃんと出来たというだけであとは何もなくなり、何がなくなったんだというとわからないけど、何かなくなることだけは確かなんだ。困ったな、こんな話。