荒川洋治全詩集

 

前日につづき、荒川洋治全詩集。

『美代子、石を投げなさい』1992

賢治ファン批判。賢治が見えない人間が権威として賢治を語ることへの批判。

(略)
完結した 人の威をもって
自分を誇り 固めることの習性は
日本各地で
傷と痛みのない美学をうんでいる
詩人とは
現実であり美学ではない
宮沢賢治は世界を作り世間を作れなかった
いまとは反対の人である
このいまの目に詩人が見えるはずがない
(略)
ところがちがう ネクタイかけのそばの大学教師が
位牌のようににぎりしめて
その名前のつく本をくりくりとまとめ
湯島あたりで編集者に宮沢賢治論を渡している その愛重の批評を
ははは と
深刻でもない微笑をそばつゆのようにたらして


宮沢賢治
知っているか
石ひとつ投げられない
偽善の牙の人々が
きみのことを
書いている
読んでいる
窓の光を締めだし 相談さえしている
きみに石ひとつ投げられない人々が
きれいな顔をして きみを語るのだ
(略)

『秋』1983

すべてはミルキー・フェイスのせいだ
(略)
ことばというものの怖れを知らない彼女は
朝から晩まで男あての手紙を書いている
ぼくを目の前にしてだ
エダもたわわよ! とか
アイしてます! などと平気で書きつづる
それを受け取る男が現にいるのだ
そいつは乳化していく一人部屋で
彼女の右下がりの字を読んで
わあわあ泣いている らしい
(略)

『祖父としても伸びるわたし』1978

一部引用

少し早いが
昭和を閉めて
わたしは街へ出る
夏の氷のきらきらとした
自体はふらふらとした
溶けようを見たいのだった
(略)
こんな面倒は明治の待合でもみられなかったぞ
とは祖父としても伸びる
わたしのことばだ
しずかにして聞いてくれ
旗鼓消えて
ここずっと描かれていないな
人生のこの部位このみぞおちのところ
空いているぞ白いぞ
とは祖父としても伸びるわたしのことばだ
(略)
ほそひものごとく
男の風味がたちのぼる
戸を閉めよ
祖父として伸びるわたしをひとりに

『海老の壁』1997

送った原稿のデキを編集者からの言葉で煩悶推察。
三頁過ぎから引用

だれも興味のない「詩」を素材にしたことだ。これは大きなあやまりである。「詩」をそばだてていい場所など日本のどこにもいまはない。このぼくの事実誤認は「詩」の状況が抱える以上におおきな傷だ。「もう絶対にしない」と誓え。車海老はラーメンの湯気にしっぽをはなして投げ込んだ。「お好みにあわせていろんな具材をそえると、いっそうおいしく召しあがれます」と、ラーメンの袋は書いている。袋が書いているというのに!
【第四種】
「玉稿、拝受しました。都丸さんらしいこまかい観察に心が動きました。とてもいい原稿をいただき、うれしく思います。これからもどうぞよろしくお願いします」
これも、よろこんではいられない。よくなかったのだ出来は。なぜなら、「心が動く」と「とてもいい原稿」の接続が、いつものG氏の文体からみるに、早すぎるのである。あのG氏独特の緩慢さのわだちが抜けている。持病の胃痛でないとしたらえらいことだ。もう依頼はこないかもしれない。なんということか。いつになったらぼくはよき原稿が書けるのだ。鍋を火にかけたまま暗黒に胸がはりさける。ともかく食べるのはまずい。寝ることにした。どんな言葉もなぐさめにはならない。「どんな人の言葉も、こちらの言葉になれば」力をなくす。特によろこびにはならず、とりわけ静けさにも高ぶりにもならず、それでも言葉は必要とされていく。歩いていく。なぜこの場所では「革命が起きないのだろうか」。血が沸き、海老が躍っているというのに!
(略)

『照明』1993

一部引用

ひろびろとした照明
それが自分というくさりきった人間の納屋にはぴったりだ
(略)
ひろびろとした照明
昼の村里のなかにぽつりと立つ
警察署のような照明
そこには車が一台とまっている
ハンドルを落とし
顔を向けて沈んでいる

『遺族の家』1982

戦争未亡人の井田さん。
二頁すぎから

このあいだといっても十五年前、テレビがないので
「紅白」の中継を
わが家へ来て、
見ていたが
生まれてしまったものが
歌をうたったり
足をあげたり
していることには
やはりつめたい反応をしたためて
帰ってゆかれた
すべては
のみこまれてしまっているようだ


井田さーん、電話です
と谷越しに呼んでみることがある
若い私の声では振り向きもしない
死期近い祖母の声に代わると
ピク
と反応する

『オリエントの道』1984

二頁すぎから

彼女はユタカも知るとおりの女で
ユタカが三年がかりで
彼女を汚そうと 目と奥の手を使って
みたが汚れなかった
くりかえしても曇らない
あいつはなんだ
あいつはなんだ と
ユタカの声は小さくなって
いまは醜い小橋という名の
屋台をひいて
曇った酒を売っている