荒川洋治を大衆化

荒川洋治詩集30年の結晶をハゲしく飛ばし読み。現代詩として最先端なものより、大衆に受けそうなものを選んでみました。

荒川洋治全詩集―1971‐2000

荒川洋治全詩集―1971‐2000

これなんか花くまゆうさくの絵をつけたらヤングにも受けるのでは。
『林家』1993
(現代詩人は無理解な世間に対峙しなきゃ駄目だろという前フリが三頁程あって)

林家ペーが奥さんのパー子といっしょに
ピンクの服にくるまって
崖のところまで歩いている
笑いがとれないと崖のところに
追い詰められるきびしい一瞬だ
でもそこに
パー子の母親の姿があり
この番組が
「無名に近い芸能人夫婦の旅路」ではなく
「母とともに温泉を訪ねる」というものだとわかった
ぼくはそれをじっと見ていた
ちがいがみえてくるまで見ていた
ついでに林家こぶ平のおおきな顔と
小さな必要を告げる文章も見えてきた
じっと見ていることにしか空想はないことのようだ
二人は温泉に来たのに
崖に近づき
だんだんぼくの好きな人になる

『笛』1983
(幼稚園の親子ペア椅子取りゲームで一回目でアウトになってしょんぼりという話。一頁すぎから)


が鳴った 気づいたときぼくらを含めた二組が
略式の死者
明かるいざわめきの中 投げ出されてしまっていた ぼくは
(やっぱり……だめ だったか)
と 娘のかおをみる
みる子は
だまって
いた

(ああ やっぱし パパはだめだった か)
と思っているらしい
しぼんで
いる
そのまま父と娘はへりに寄って口をとじ
世界の外から
たたかいのしっぽまでを
しずかに眺め
ていた
みる子クン すまぬ
ぼく

ゲエムというものによわい
それはぼくがおくびょうであり また
遊びのこころ 解せないせまい心の持ちぬし
であるというそれだけのこと
とも思えない ぼくは椅子をとる とりあうという
そのことに ぼくは 心は
もはや繰り出すちからをなくしているのだ
ここからは
大人の問題である だから大人は誰も
答を
出せはしない。
(略)

こういうのだとオッサンただの日記じゃんとバカにされてしまうでしょうか。
次のは多分フェミにバカにされるのか。しかもこんなふうにそんな部分だけを引用してしまってはなおさらな気もするが。
『渡世』1997
二頁あってから

お尻にさわるのもいいが
お尻にさわるという言葉は
いい
佳良な言葉だと思う
あそこにはさわれない
でもさわりたい、ことのスライドの表現
のようでもあるが
そうではない
この言葉には
核心にふれることとは
全く別の内容が
力なく浮かべられている
若いすべすべの肌にふれ
「いのちのかたち」をたしかめたい男性たちは
まとを仕留めたあとも
水が
いつまでもぬれているように
目をとじたまま お尻に
さわりつづける

  ぺたぺた。

  ちゅう。ちゅう。

「ね、うれしいんでしょ。これで、いいんでしょ。
でも、どうして、そんな顔になっていくの?」

そんなとき
言葉は輝く
お尻にさわる は
その力なさにおいて
輝く
日本が
残していい言葉だ
(以下三頁略)

うーん、ボクは荒川さんを推進しようとして逆に悪い方に追い込んでいるのだろうか。
ボクはブラ線に心揺れるタイプでありまして、お尻をさわりたいと思ったことはないなあと書いて自爆しておきます。
『夜明け前』1986
仕事の疲れを昔のプロレタリア文学を読んで癒す。
一頁すぎから。

この十年 男は読んだ
ここかしこドカンドカンと音出す岩藤雪夫
綿! 綿! の須井一
そして見えてくる
夕張の小山清
いい みんないい
へただ あつい みんないい
ソビエットを行くボールペン里村欣三
林彪吾の 輸血! 輸血! 輸血!
いいぞ 悲しい 遠い みんないい
ぼくの午前三時は
失われた叫びで鍋のように
へこむ。
それはいま鍋のような
夢のような話ばかりだ
(略)
午前三時 三〇〇頁
あと一〇〇頁 まだまだ残る まだだ まだだ まだまだだ。
趣味は深夜に及ぶ
趣味だけが 深夜に及ぶのだ
鍋のようだ
夢のようだ

なんかスゲエ読みたくなるんですけど。
ちょっと心配になってきたので少し現代詩っぽいのを
二つ全引用。
旅愁』1981

怒りで半裸になった女の写真が
飾り付けてある
森のところは白いカーブの布が
おおっている
チケットの半券をしぼりながら
赤い釘をぶらさげた係官に従いていく
背景となったノボシビルスクの原野には
たっぷりと森が息づき
空気を蹴って逃げだしそうな
強く黒い性情がタテに並んでいる
大きな人間になってください
釘を笛のようにくわえて係官は
森を見ない私に
云った

『格闘』1981

近づかないで下さい、
という立て札がある
みんな手前で
観ている
しばらくすると
いきなり人の波が引き
敗者が
見えてくる
すっかりあたたまった
春の土に
手をついて
帰ってゆく者もいる
さみしいねえ、どうやって、これから
生きるのか、ねえ
夜は勝敗表の同じところを見つめ
見詰めて
穴のあく頃
眠りにつく
明日は十時からです、
という立て札がある

疲れたので明日に続く。
それにしても「バニラ・スカイ」化していたマイケル、歌うわけでもないんだし、本人である必要もない気がする、というか本人じゃなかったりして。あの仮面の下は崩壊してるのだろうか、ホンマ、びはいんどざますく、の世界やでえ。
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