売春婦の寄進はありか?

売春婦からの寄進

12世紀末パリ・ノートルダム建築の際、売春婦からの寄進を受け取るべきか問題に(結局お断り)。
最初の聴罪司祭手引書のひとつを作成したチョバムのトマスの見解

「売春婦は賃金労働者の中に数えられねばならない。実際に彼女たちは肉体を貸し、労働を提供する……。それゆえ、世俗裁判の定める次の原則が生じる。彼女は売春婦なので不適切な行動をするが、売春婦であることが認められているので、その労働の対価を受け取るとき、彼女の行動は悪くない。それゆえ、売春したことを悔い改めることができるが、売春から得た利益を施しをなすために保持することができるのも事実である。とはいえ、喜びから売春を行い、快楽を得るために肉体を貸し出すのであれば、労働を貸し出すことにはならないので、そこから得た利益はその行為と同じく恥ずべきものである。同じく、売春婦が香水をつけ、偽りの魅力で惹きつけるために飾り立て、彼女の持っていない美と魅力を客に信じさせようとするとき、客は偽りのものを前にしてそれを買っていることになるので、売春婦は罪を犯しており、そこから得た利益を保持してはならない。実際に、もし客が、彼女がまさしくそうあるような真の姿を見たならば、一オボルを与えるだろう。しかし、彼女が彼にとって美しくきらびやかに映ったならば、一ドゥニエを与える。この場合彼女は一オボルしか受けとってはならず、残りは彼女が騙した客、もしくは教会、あるいは貧民に返さなければならない……」。

「働くこと」への侮蔑

 当時、二つの蔑視が大多数の職業を捕らえていた。職業的活動という面で、奴隷の後継者といえる農奴の諸活動に向けられた蔑視はそのひとつである。(略)
 もうひとつは、賃金労働者に対する軽蔑である。(略) この蔑視は、上層の人々たる「祈る人」と「戦う人」、すなわち聖職者と騎士に対して下層をなす集団、「働く人」たる労働者階層を捕らえることになる。
 けれども、二つの支配階級は対等の関係にはない。(略)
ただ聖職者のみが、汚れなき集団である。俗人領主に対して、聖職者は流血をもたらす戦士という職業に侮蔑の視線を向け、反軍事主義を保つ。純粋無垢を装いつつ、聖職者は同盟者であると同時に競争相手であった人々、手を血で赤く染めた人々を告発する。
 しかし、11世紀から13世紀にかけて生じた経済の復興、遠隔地交易と都市の飛躍とともに、社会的景観が変わる。新たな活動と結びついた新たな社会層が現れる。職人、商人、技術者である。

ブルジョワ、侮蔑の境界の変化

二つの蔑視が対立する。勤勉なる者たちに対する貴族の蔑視と、何もしない者たちに対する労働者の蔑視である。
 けれども、祈りの世界と戦いの世界に対する労働の世界の一体性は、もしそれが存在したとしても、長くは続かなかった。古き支配階層に対して団結した下層の職人が、都市世界の上層が獲得した社会的評判という裂け目から侵入する一方、裕福なブルジョワは教会と貴族に対して、労働者大衆の重みと圧力とを利用する。(略)
一方に大商人、両替商といった富裕者、他方に零細な職人、見習い職人からなる貧者といった区別が生まれる。(略)
 侮蔑の境界が一新される。(略)職業活動の極端なまでの細分化(略)
水平的である以上に垂直的な細分化によって助長された差別が、繊維部門においては職工、それ以上に縮絨工と染色職人を階梯の下のほうに追いやり、また靴直し職人を製靴職人の下へ、外科医と理髪師=薬剤師を医者の下に追いやった。ますます書物中心の生活をするようになっていた医師は、実践を軽視して、現場で働く卑賤な治療師に任せるようになっていった。

頭脳労働の格上げ

 働くことそのものが、もはや重んじられる階層と軽視される階層とを分かつ分割線ではなくなっていた。いまや、名声と軽蔑の新たな境界をつくるのは、手仕事である。知識人は、大学人を筆頭として、有利な側に位置づけられるよう急ぐ。(略)
 新しい侮蔑は、封建的偏見だけでなく、祖先からのタブーを保持していた。ある奇妙な例は、肉屋である。かれらの富が――その何人かは最も富裕な都市住民であった――軽蔑の障壁を壊すにはいたらなかった。かくしてかれらは、14、15世紀に数多く生じた民衆蜂起の指導者となり、立ち上がった「一般人たち」を金銭で支援し、自分たちの怨念をかれらに注ぎこんだ。カボシュ暴動はその典型であった。

大学人の退廃

 12、13世記の大学人たちが、発見者という自らの天命を自覚していたのに対して、15世紀の大学人たちは保管人であることに満足する。それゆえ、――いまや高潔さを具えるにはほど遠い存在となった――大学人という職業の知的で物質的な側面が絶えず非難されることになる。奇妙にも将来の法学者を前にしてジェルソンは、法学の効能を純粋に否定的な側面しか持たない有用性にまで減ずる。法学の賜があるとすれば、それはただ罪の結果によってでしかない。法、正義は悪がもたらす不可避の帰結でしかないのである。(略)
パリの大学人たちは、その心性においても、またその職務においても特権的閉鎖階級であった。書物を用いる人々の団体は、くどくど繰り返す神学者、精神と品行の監視人を自認し、いまや書物を燃やす人々の集団に変わってしまった。

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