旅行記作家マーク・トウェイン

ミシシッピで暮らしたのは18歳までと、75年の人生からみると短い期間。あとは漂泊の人生。

トム・ソーヤーの冒険』は著者もデキに自信があったにもかかわらず売れなかった。

読者がトウェインの作品にもとめていたものは、スケッチや短編小説に見られる彼独特の諧謔味であり、『地中海遊覧記』で発揮した辛口の批評であった。

地中海遊覧記 〈上〉 マーク・トウェインコレクション (10 A)

地中海遊覧記 〈上〉 マーク・トウェインコレクション (10 A)

 

講演で食いつなぐ

どちらかといえば旅行記やそれをネタにした講演による収入がメインだった。
まず30歳の時にまだサンドイッチ諸島と呼ばれていたハワイに四ヶ月滞在して『ハワイ通信』として出版。

 ハワイからサンフランシスコにもどってしばらくすると、トウェインはいよいよカリフォルニアを離れ、ニューヨークに出る。だが、西部で若干名前を知られた程度で、東部ではほとんど無名に近い物書きが、いきなり筆一本で食べて行けるほど、東部の文壇も甘い世界ではなかった。そこで彼はプロモーターを頼って、しばらくはハワイの講演で食いつなぐことを思いつく。
 この時代の講演については注釈が必要である。まだラジオもテレビもないこの当時のアメリカでは、講演は演劇と並んで人々の主要な娯楽の一つであった。名前の売れていた講演者は今日のスター並みの人気と収入があったと言われる。無名でも、トウェインの「ハワイ」のように、売り物になる演題があれば、一回の講演で50ドル、100ドルといった出演料を稼ぐことができた。
 当時の平均的な工場労働者の年収が3〜400ドル前後だったというから、これがいかにいい商売だったかがわかる。

講演で食いつなぐも小説は売れず、勝負をかけて地中海遊覧ツアーに応募。参加&滞在費の大金2000ドルを通信記事50回分の約束で工面。
狙いは当たり『地中海遊覧記』は売れ、上流階級の娘と結婚、義父の用意した豪邸、新聞社の共同経営権、順風満帆にいくはずが、結局、波乱万丈の一生。

  • 印税でもめ自分の出版社をおこすことに。社長は姪の夫。その娘が『足ながおじさん』のジーン・ウェブスター

[余談ですが、何かと話題のwikiを今みたら、「姪にあたる」という嘘が書かれていました。英語版にはちゃんと、mother was niece to Mark Twain and her father was Twain's business managerと書いてあるのに。]

ミシシッピの生活 〈上〉?マーク・トウェインコレクション (2 A)
 

ラフカディオ・ハーン

 今回の講演旅行の目的は『ハック』の宣伝と、ますますふくらむ生活費の穴埋めのための現金収入であった。ジョージ・ワシントンケイブルがいっしょだった。ケイブルはニューオーリンズ出身で、南部を舞台にした小説をいくつか書いている、名の知れた作家であった。
 ケイブルはアメリカにいた頃のラフカディオ・ハーンの友人でもあるが、おもしろいことに、ハーンの経歴はトウェインとも無縁ではない。ハーンはイギリスからアメリカに渡ったあと、トウェインと同じようなコースを歩み、印刷工から物書きになった人である。しかも、彼はシンシナティニューオーリンズと、トウェインと同じように南部の都市を渡り歩いている。さらに、トウェインの『ミシシッピの生活』が出版されたときには、ハーンもその書評を書いたひとりで、大いにこの作品を賞賛した。
ハーンはトウェインのあとを追うようにその経歴をかさねていった。そして、ふたりとも東洋にあこがれていた。だが、最終的に、トウェインはヨーロッパヘ、ハーンは日本へとそれぞれ正反対の方向に向かった。

1885年、自社から出版した

グラント将軍回想記バカ売れ。

 結局、彼らの「ビギナーズ・ラック」がウェブスター社の行く末を決めてしまった。このあと、トウェインは創作より出版事業にうちこみ、作家というよりは実業家になってしまった感がある。『回想記』が売れたことに気をよくし、今度はグランド将軍の胸像を作って売り出すことを思いつき、じっさいに胸像を試作させていた。この話は実現しなかったが、やりすぎだ。出版に関しても、トウェインはつぎつぎに企画を立てていたが、どれもうまくは行かず、ほとんどが空振りであった。まともに売れたのは、経営が傾いてから出したトウェインの本だけである。
 一方、この出版社の経営と同時進行で、トウェインは破滅への道をたどりつつあった。彼は特許権の取得や株への投資を以前からやっていて、一時は23社の株を合わせて15万株も保有していた。これはたいへんな数字である。(略)
 トウェインには富に対する単純なあこがれに加えて、飢えることへの恐れがあった。そうでなければ、やや常軌を逸したとも思える、彼の投機熱は説明がつかない。また、いくら文学の世界で名をあげようと、それは真の成功とは言えず、実業の世界で成功してこそ真の成功者だと彼自身は思っていた。これらの要素がからみ合って、投機に走ったものと思われる。
[色んな発明投資でカモられ、最終的にジェイムズ・ペイジの自動植字機への過剰出資でウェブスター社は倒産]

謎のファンクラブ

[妻のもとに講演旅行中のトウェインが死亡したという嘘の手紙が届いた1881年]
同じ頃トウェインのもとに、アイルランドのコリガン城を本拠にしたマーク・トウェインクラブなる団体から、定期的に研究会の報告書が送られてきていた。そのクラブは会員数が32名で、会費や会則などが細かく決められていて、月に一度例会を開いているとのことだった。そのうちに、会員バッジも送られてきた。それはトウェインのイニシャルを図案化したもので、たいへん凝ったつくりの、高価なものであった。
 はじめのうちこそ、トウェインもていねいに返事を書いていたが、そのうち面倒になってきて、会報が来ても、見ずに捨ててしまった。やがて、何年か経って、定期的に送られてきた会報もこなくなり、いつしかトウェインもそのことは忘れていた。(略)
[14年後、オーストラリア訪問中のトウェインを]
アイルランド生まれのブランク氏という人物が訪ねてきた。年のころは40代後半、威厳があって、礼儀正しい独身の紳士であった。ブランク氏はトウェインの作品に驚くほど精通していた。
 ひとしきり話がはずんだ頃、ブランク氏は奇妙な話をはじめる。「わたしのことを覚えていませんか」と聞くので、トウェインが覚えていないと答えると、たいへん贅沢なつくりの便箋を見せる。それにはトウェインも見覚えがあった。トウェインがどうしてそれをもっているのかとたずねると、これはマーク・トウェインクラブの便箋で、自分はあのクラブの会長だったとブランク氏が答えたのである。そして、クラブもコリガン城も架空のもので、メンバーも彼ひとりだったと打ち明けた。
 それを聞いて、トウェインは驚く。研究会の報告書には、何人もの人々の研究発表が紹介されていて、何度も会報をもらううちに、トウェインもそれぞれの発表者の個性を把握してしまい、やがて名前を見なくても誰の意見かがわかるようになった。つまり、ブランク氏は何人ものキャラクターをそれほど完璧につかいわけていたのである。それを五年間もつづけていたのだ。会員バッジも彼がデザインしたものだが、トウィエンに送るためにたった一つしかつくらなかったという。
 そして最後に、ブランク氏は、メルボルンでトウェインが死んだという手紙を書いたのも自分だと打ち明けた。どういうつもりであのようなことをしたのか、いまもって自分でもわからないが、深く考えもせずに手紙を出してしまったのだと言って、彼はトウェインにあやまった。これでとうとう長年の謎が解けたのだ。

南ア滞在

 南アフリカでの滞在期間は、五月六日にダーバンに着いて、七月十五日にケープタウンを離れるまでの約70日間と、意外に長い。講演回数も32回で、国もしくは地域別でみるともっとも多い。だが、そのわりには、南アについて書かれたページ数は少ないのである。『赤道に沿って』は全体が69章からなっているが、そのうち南アに関する章はわずか5章である。書かれたページ数に比例して、南アでの滞在が短かったものと筆者も思いこんでいたが、日程を詳しく調べてみたら、インドと同じくらいの長期滞在だった。

賢妻死後、女性秘書をナニしたりする一方で、ロリコン

家族のいない寂しさを補うためか、オリヴィアの死後、十代前半の少女たちと親しく交際しはじめる。ほとんどが十二、三歳で、トウェインは彼女らを「エンゼルフィッシュ」と呼び、手紙を頻繁に書いたり、自宅に招いて遊んだりしている。本人は孫の代わりだと言っているが、周囲の人々はこれに眉をひそめる。世界的に名の知れた大作家が子供たちと親しく交際しているという、ほほえましい話題とは必ずしもうけとられていなかった。対象が美少女だけにかぎられたというのが、どこか不健康な印象をうける。

というわけでなんだか気分がクライので肝心の旅行記の内容については引用する気力なし。