『闇の奥』の奥

 

 ベルギー国王レオポルド二世は、1885年からのほぼ20年間に、アフリカ大陸中央部のコンゴの「闇の奥」でコンゴ人の大量虐殺を行った。(略)ユダヤ人の大虐殺は誰でも知っている。(略)
 しかし、コンゴ人大虐殺の方はほとんど誰も知らない。現代人の記憶と意識から見事に拭い去られている。これは一体どういうことか? この奇怪な歴史の現実の奥に目を凝らせば、コロニアリズム植民地主義)とは何か、帝国主義とは何か、そして、「ヨーロッパ」とは何なのか、私の言葉で言えば、これらすべての現実を生み出してきた「ヨーロッパの心」とは何なのかが、やがてはっきりと見えてくるであろう。

「エンプラ事件」

1926年生まれの物理教授著書(なのに/だから)わかりやすく書かれている。
「闇の奥」は帝国主義を鋭く批判した作品として称えられてきたが、実際はそうではない。そして今でもコンゴでは「闇の奥」と同様の収奪が行われていてそこに日本も加担しているのだという告発で本が終わり、あとがきを読んで唸った。

「エンプラ事件」をご存知だろうか。(略)
その時、私は教養部の一物理学教師であった。佐世保では血が流れた。重軽傷者519名。
 1970年4月の九大教養部報に、私がカナダから寄稿した一文が掲載された。(略)
「1968年3月、エンプラ事件の経験で頭が一杯のまま、カナダに渡って来た私は『北米インディアン』という奇妙な問題に、そのままのめり込んでしまった。(略)
「……自己に対する不誠実と勇気の欠除のゆえに、私はまだアルバータ大学教授の地位にすがりついている。しかし、この『死に至る病』はやがて私に決断を迫るであろう。そのとき私は無位無冠の一人の男として福岡にかえり、夜を徹して『インディアンのお話』をもうしあげることにしよう」。
 今、この文章がいかに気障に聞こえようと、私は、その時、真剣であったと申し上げるほかはない。
 1972年、私は『アメリカ・インディアン悲史』と題する小著を出版した。しかし、大学の職にはそのまま残って定年を迎え、今は、老残の身を晒している。ただ、日本からの移住者としてカナダで40年を過ごしてきた私は、カナダの白人社会への同化に努めるよりも、むしろ、その先住民に親しみを覚え、その側に身を寄せ、北米先住民の目でカナダの社会を見る習性を身につけることになった。その被差別者の感覚で、私はコンラッドの『闇の奥』を読み、アフリカの過去と現在について学んだ。その結果が本書である。

(参考:→ 42歳で渡加、この本を出版したのが80歳。うむう。
ガンバレ、オレ。「このままだとホームレスだな」とか言ってちゃダメだよ、オレ。立派な人を見習って、少しでも立派な大人に近付こうよ。ちょっとブルーになってたけど、元気がでたよ。負けないで、オレ。
と、著者が告発する大問題をほったらかしてセンチメンタルになってしまってスマナンダ。大丈夫かな、オレ。

  • とりあえず、通常モードに戻って淡々と引用。

何故コンゴが手付かずで残っていたか

小国ベルギーだけでは納まりたくないと「動物園のおとなしい熊のように同じ所を動き回っている」自分の無聊をビクトリア女王に直接ぶちまけた父の後を継いだレオポルド二世。父に「狡猾でわる賢く、狐のように用心深い」と評された男は、牽制し合う列強の間隙をついて本国の80倍の面積を持つコンゴを私的に手に入れる。彼はセビリアに一か月逗留し「公文書館に通いつめて、スペインの海外植民地経営の研究にはげみ、植民地からの富の搾取のプロセスに異常な関心を示した」。
何故コンゴが手付かずで残っていたか。

 ヨーロッパの商人たちはアフリカ西海岸の黒人王国の支配層を金品で買収腐敗させ、銃器を与えて奴隷取引の手先に仕立てた。(略)
 アフリカ大陸の内部に押し入って植民地を開拓し、資本を投入するよりも、黒人の奴隷商人を育成して大陸内部から黒人奴隷を西海岸まで連行させ、大西洋をまたいで奴隷貿易をする方が、ヨーロッパの貿易商人、金融業者にとって、はるかに効率よくしかも安全な富の集積の方途であったのだ。
 こうして、ヨーロッパの白人たちは吸血蛭のようにアフリカの海岸一帯にはりついて、350年の間、アフリカ大陸の全土からその生血を吸い続けた。これが、1870年代までアフリカ大陸の約八割がいまだ“空き地”として残っていた主要な理由であり、

暗黒にしたのは白人

 コンラッド/マーロウがコンゴ河の河沿いに目撃したのは、獣にも等しい原始の人間たちであったのではない。三世紀半にわたる白人たちの濫用酷使に荒廃した黒人社会だったのである。
 『闇の奥』を読む時に私たちはこのことをよく意識していなければならない。コンラッドは「楽しい神秘にみちた空白、少年が輝かしい夢を追った真っ白い土地ではなくなってしまっていた。一つの暗黒の場所になってしまっていたのだ」と書いたが、そのアフリカの“暗黒”はヨーロッパによって持ち込まれたもの、ヨーロッパそのもののどす黒い影であったのだ。

利用されたアメリ

強大国の中のただ一国でもコンゴを承認すれば、他はレオポルドのパイを強引に奪う暴挙に出ることはあるまいと踏んだ彼は、最も御しやすい大国としてアメリカを選び、1883年11月、ブリュッセル在住の腹心のアメリカ人サンフォードを再びワシントンに送った。
 当時アフリカに領土的野心を持たなかったアメリカの政治家たちはAIAとAICの区別もつかず、サンフォードはこの知識的な混乱を積極的に利用して、AICの管轄に入る土地は会長のレオポルド二世の人道的善意によって治められるものであり、アメリカ南部で解放された黒人奴隷の送還先としても適当であろうと宣伝した。1847年にアフリカ西海岸で独立した黒人国家リベリアがその機能を果たしていた事実にも助けられて、このサンフォードの発言は、アメリカではもっともらしく魅力的にひびいた。
 1884年4月アメリカ政府はAICの上地、つまり、スタンリーが用意したレオポルド二世のコンゴを、事実上、一つの友好国家として承認した。いわゆるビスマルクベルリン会議開催直前のクリーンヒットであった。

「切り落とされた腕先」の真実のストーリー

奴隷労働強制のためにコンゴ内黒人で公安軍を編成したレオポルド二世。だが問題発生、高値がつく銃弾を黒人隊員が盗んでしまう。

 白人支配者側は、小銃弾の出納を厳しく取り締まるために、銃弾が無駄なく人間射殺のために用いられた証拠として、消費された弾の数に見合う死人の右の手首の提出を黒人隊員に求めた。銃弾一発につき切断した手首一つというわけである。このおぞましくも卓抜なアイディアからどんな結果がもたらされたか? 銃を使わずに人を殺し、その手首を切り取って提出し、銃弾をせしめる者が現われた。わざわざ殺さずとも、過労から、飢餓から、病気から、人々は死んでいった。生きたまま右手首を切り落とされる者も多数に上った。銃弾と引き換えるための手首に不足はなかったのだ。
 これが、レオポルド二世のコンゴ自由国の「切り落とされた腕先」の真実のストーリーである。

コッポラの罪

さてここでコッポラ『地獄の黙示録』。米軍が予防接種した腕をベトコンが切断したことに、カーツ大佐が衝撃を受けたエピソードが問題になる。

このエピソードは、前にも述べた通り、ジョン・ミリアスが友人で元CIAの諜報員フレッド・レクサーから聞いたというのが唯一のソースであり、この話を裏づける一枚の写真も、レクサー以外の人物の証言も、私の知る限り、存在しない。もしこれが一種の作り話だとしたら、それをあの形で映画に組み入れたコッポラの罪は重い。
 野生のゴムの樹液採取の奴隷労働の恐怖のシンボルであった「切り落とされた腕先」の蛮行の記憶が、ベトコンが自国の子供たちに対して行った異常な蛮行として歪曲移植されている。これが、驚くべき無神経さと極端な偏見(extreme prejudices!)をもって実行された人種差別行為でなくて何であろう。

明日に続く。