ソウル座頭市

前日の続き。

克己心&自己責任の塊レイ・チャールズが熱く語る

ドラッグ論

 私はさまざまなドラッグを16、17年ずっと使ってきた。ドラッグに関わりをもつことなど絶対にお勧めしない。しかし、私がドラッグに関連して恐ろしい逸話をもっていないというと意外に思うだろう。申し訳ないが、そういう話はもちあわせてはいないのだ。(略)
誰かのせいで私がドラッグにはまったわけではない。私が私の責任において、ドラッグに手を出した。手を出したのは社会環境のせいでもないし、ヤクの売人が私にやらせたのでもない。自分でやったのだ。盲人であること、黒人であること、貧乏であることもまったく関係ない。すべて私がしたことだ。これは少し奇妙に思われるかもしれないが、私は別に後悔もしていない。これも、人生の教訓のひとつだ。私は手を出したが、それでも生き延び、その経験は私の糧となったのである。

50セントでマリファナが買えたし、5ドルもあれば、20本のマリファナタバコが買えたのだ。
 1948年当時、4ドルか5ドルの袋入りへロインはかなり強力だった。最初は週に一度か二週に一度の割でひと袋やっていた。毎日ハイになる必要はなかったし、そこまでする金もなかった。
 金はすべてドラッグにつぎ込んだわけではない。大違いだ。ルイーズを養わなければならなかった。音楽性を養うためにも金がかかった。そのころ、私は初めてのピアノを150ドルか200ドルで買った。小さいエレクトリック・ピアノで、私にとってはおもちゃだったが、かなり気に入っていた。

彼らは、私のマネージャーか代理人、あるいは友達がドラッグを強制的にやらせているのではないか、と邪推するのだ。彼らは私を鎖につながれて引き回されている哀れな子犬のような犠牲者として見ている。
 馬鹿を言うな。
 信じられない人もいるようだが、私は自分で髭が剃れるのだ。(略)
 切れた電球を自分で交換したり、電灯のスイツチをいじったり、テレビやステレオ機材を修理したりすることができるのだから、もちろん麻薬を静脈に打つことぐらいは朝飯前だ。こう言えばわかりやすいだろうか。針に糸を通すことだってできるのだ。

 わが人生における信念、欲望はいたって単純である。人のことはかまわない。だから、私のことも放っておいてほしい。自分の身体に私自身が何かすることを禁じる法律がなぜ必要なのか。(略)
何百万ドルも儲ける麻薬シンジケートの連中を野放しにする一方で、哀れなジャンキーをしつこく追い回すようなシステムに不快感を表したい。連中はその潤沢な資金で法律を自分たちの味方につけているのだ。

1954年の懐具合

 経済的には依然潤ってはいなかった。ライヴのギャラが250ドルだとしよう。ショー・エージェンシーが15%を取る。メンバーがそれぞれ20ドルずつ取る。私の他に6人とマネージャーのジェフ・ブラウンだ。7人のメンバーで140ドルになるから、残りの72ドル50セントが私の取り分だ。しかし、そこからあらゆる経費を出さなければならない。ガソリン代、車の維持費、その他の諸経費などを払うと、何も残らないことが多かった。

[ライブ一本のギャラは]58年から59年ごろには500ドルから600ドルに上っており、いい日だと800ドルにもなった。

著作権

[1954年]時点では、私はまだビジネスに執着がなかった。《アトランティック》の人間が曲の音楽著作権を売らないかともちかけてきたことがあった。もちろん「イエス」と答えたが、そんなことを言われてひどく驚いた。もともと彼らが権利を持っているのかと思っていたからだ。

私は自分がロックン・ロールの歴史の一部になったとは考えていない。

チャック・ベリーやリトル・リチャード、あるいはボ・ディドリーといった連中だ。私は彼らがロックン・ロールの主役だと思う。彼らの音楽と私の音楽の間には大きな隔たりがある。私の音楽は、彼らの音楽より大人向けだ。10代の子供たちは彼らの音楽ほど私の音楽へ親しみをもてないだろう。私の音楽は悲しく、また落ち込むような作品が多いからだ。(略)
 別に他のアーティストを非難するわけでも、自分を褒め上げるわけでもない。(略)
 私もハッピーで明るい曲や、人々を躍らせるテンポの作品をプレイした。だが私の「ドント・ユー・ノウ・ベイビー?」とリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」を比べてみれば、違いがわかるだろう。私の曲の方がよりシリアスだ。どんなロックン・ロールの曲を聴くよりも絶望感にあふれている。

戦争

この国がどんどんとおかしなことになっているのがわかった。1967年から1968年にかけて、みんながヴェトナム戦争について一斉に叫び始めた時、誰もと同じように私も困惑していた。私は戦争というものを決して理解できない。戦争をしないための戦争という考え方がまったく理解できなかった。母の息子たち、兄弟たち、父たち、夫たち、親戚縁者もない者たち。なぜ彼らは死ななければならないのか。私は考えた。もし私たちがヴェトナムを駐車場にするために国土を奪うつもりがなければ、若い連中をそこに送り込んで、そこに住む人々の頭を吹き飛ばす必要はないのではないか、と。

差別

 私は人々も国々も放っておいたほうがいいと思う。義務と干渉、熱狂者と熱烈な伝道者。彼らはあなたを非難し、女はあなたを変えようとする。私の知る限り、すべて無駄骨に終わる。
 みんな、そのままにしておこう。
 昔は南部の状況はひどかった。人種的憎悪はあからさまだった。誰もが目の当たりに見て、感じていた。辛辣だった。だが少なくとも誰もがその存在を知っていた、少なくとも何を覚悟しなければならないかを知っていた。
 だが今は人種的憎悪は捉えにくく目立たない。ある意味、そのほうが怖いと思う。なおさら危険だと思うからだ。人種的差別を堂々と口にする人間がいれば、その存在が明らかになる。だが、ひとたびその人間が黙ってしまうと何が起きているのかわからない。

 彼が神すらも恐れない理由のひとつは、彼が苦労して稼いだ巨額の富にあるのかもしれない、と私は思った。
 「違う」と、彼は当たり前のように言った。「私に関して重要なことは“私は変わらない”ってことだ。絶対に変わらないんだよ。50年代、私がゴスペルの曲をリズム&ブルースに変えた時、私は地獄を味わった。牧師たちは私を汚い犬と呼んで、地獄で腐ると言ったんだ。私はそのころ、まったく金が無かった。馬鹿みたいに極貪だったが、でもあのころのレイと今のレイはまったく同じなんだ。自分がすべきことをするだけだ。私は音楽を変えたかった。金も稼ぎたかった。神様の精神を汚したから私を殺すって言うなら、どうぞ勝手にしろ、ってね」

2003年肝臓癌発覚

「化学療法はきつかった」と彼は言った。「負けるかと思ったよ。死の扉の前まで行った。辛かった」
「気の毒に。その辛さって、相当なものでしょうね・・・」
「肉体的なものだけじゃないんだ。精神的にたまらないんだよ。いろいろ考えさせられた」
「何について?」
「すべてだ」

 「子供のころ目が見えなくなった時、私は目が見えるように祈るなんて考えもしなかった。盲学校に行った時、たくさんの子供たちが祈っていた。夜中に彼らが『優しいキリスト様、視力をください』って言うのが聞こえるんだ。私は彼らを嘲笑った。私は自分に言い聞かせた。『時間の無駄だ。おまえら馬鹿ども、配られた持ち札で勝負しろよ』ってね。だから私はそうした。でも、きっと君は驚くだろう。私は変化してる。今、私は治癒のために祈ってるんだ。見えなくていい。私はただ生きたいんだ。何か間違ってるか?」