昆虫マニアは変態か

昆虫好き学者の真面目な本なのですが、そのギリギリの生態が面白くてツイ借りた。

糞虫マニア

例えば糞虫マニアはキモイと言われるかもしれないが、変態とは呼ばれないだろう。でもこれが人糞だと変態だ。人間を対象とすると変態と呼ばれるのだろうか。

人間でも、犬の糞を不快に思わない人はいる。糞虫マニアと呼ばれる人たちは、せっせと犬糞を集めてはビニル袋に入れ、よく捏ねて冷蔵庫に保管し、週末になるとそれをあちこち人目につかない場所に置いて、糞虫がやってくるのを待つ。一年中これをやる。冬になってまでもやる(冬に出現する食糞コガネムシもいるのだ)。そうしてやがて集まってくるであろう糞虫のことを夢に見ながらふとんに入る。本当に夢にまで見る。夢のなかで珍しい糞虫を握りしめたときのうれしさと、目が覚めたときの「ああ、やはり夢だったのか……」という深い「がっかり」感は、マニアのみが知る悲劇だ。

[人は他人の大便を不快に思うが]
他の動物はそうでもない。犬などは、他の犬の糞を見つけるとわざわざそこへ行ってまでして臭いを嗅ぐ。じつに真剣な表情をして嗅ぐ。それは糞がいろいろな情報を持っており、その情報は犬の祖先たちが生きのびるうえで、非常に重要であったからだ。

私が生きたタマオシコガネを初めて見たのは、ケニアにおいてだった。(略)
市街地から遠ざかると、車を降りてあたりを見まわす。うれしいことに、すぐ先の路上にいくつかの大きな獣糞が落ちている。私は息を飲みながら、そのうちでもっとも大きく、黒々と光っている、ついさきほど落とされたばかりと思われる、みずみずしい一塊へと近づいていった。おそらくキリンの落とし物だったのだろう。と、そこヘタイミングよく、私の脇をすり抜けて、地表すれすれにその糞めがけて飛んでいく緑色の大型のタマオシコガネがいた。
(略)
私はそのつやつやとした巨大な糞塊のかたわらにしゃがみ込み、ただただ目を開けて、いつまでもその光景に見とれていた。
それはいまにいたる私の人生のなかでも、もっとも光り輝く思い出の一齣である。

昆虫マニアとコンビニ

蒸し暑い真夏の晩、通りがかりの山間部にコンビニを見つけた甲虫マニアやガマニアは、すぐさま反射的に駐車場へと車を滑り込ませる。そして愛書家が古本屋を見つけたときのような思いで胸をいっぱいにしながら、まずは指先でポケットに毒ビンが入っているのをそっと確かめ、それからできるだけ普通の客を装って車を降りる。そのとき、目はすでにコンビニの明かりの周囲をさまよっている。(略)
ガラス上に動く二ミリ程度の虫でも、だいたい何であるのかすぐに見当をつけ、そのなかでも良さそうな虫に向かってまっすぐに進んでいく。その虫を無事に毒ビンに収納すると、今度はガラスの前に仁王立ちになって、下から上までなめまわすように見つめ直す。中にいる人がその様子に気がついたら、ぎょっとすることもあるかもしれない。

公害地で生き残る虫たち

開発から取り残された公害地に虫が。

松木渓谷も、かつては足尾銅山から出る亜硫酸ガスで覆われた死の谷だった。(略)
いまでは晴れた日には銅色の岩盤に回復してきた緑がうっすらと色づき、それはそれで美しい風景を作りだしている。そしてこの谷に人工的に作りだされた湿地にも、よそではほとんど見られなくなった昆虫たちが生息している。
公害の原点だった場所、鉱毒が蓄積された場所、亜硫酸ガスが覆った谷に、生物たちは生き残っている。(略)悪化した環境が長期間の放置によって浄化されたのちに(おそらく昭和30年代以前に)、再びどこからか戻ってきたのだろう。その一方で、鉱毒の被害を受けなかった地域(いま、私たちが住んでいる場所)での開発はどんどん進んで、そこで暮らしていた個体群はいつのまにか姿を消してしまったのにちがいない。

昆虫採集禁止論者

とある林道で、私は向こうのほうから歩いてくるベレー帽の男を認めた。首からはマップケースをぶら下げている。およそ昆虫マニアというものは、遠くからでもその人間が昆虫採集禁止論者であるかどうかくらい、すぐに見抜く能力を発達させている。私もまた、一目で彼が昆虫採集禁止論者であることを理解した。
彼はあちこち見るふりをしながら、私の捕虫網に極度の精神的エネルギーを注いでいた。私たちはそのまま黙ってすれ違うかに見えたが、はたして彼が声を出した。押し殺したような、ひねり出したような変な声だった。「あんまりチョウを採らんでくださいよ」それだけいうと、彼は私の顔も見ずにそのまま通り過ぎようとした。私はふりむいて答えた。「私は甲虫を採っています(これはいい返事ではなかった。チョウ屋でないことで逃げようとしたからだ)」彼は立ち止まると、敵意を秘めた眼差しで私のほうを見た。私はポケットから毒ビンを取りだして彼に示した。そこには大型のニジゴミムシダマシが入っていた。彼はそれを見るなり、「なんだ、タマムシか……」そういって、それ以上何もいわずにすたすたと行ってしまった。そして十分に離れてから再び私のほうにふりむき、「ゴミを捨てるなよっ!」と大声でいい、私の反応も見ずに憤然とした足取りでさっさと行ってしまった。私は何よりも、ゴミムシダマシタマムシなどとのたまわったその男の無知に驚いた。また、私がゴミを捨てるのを嫌っていることを知らない彼の、そのいかにも正義漢らしい傲慢さに激しい嫌悪感を禁じ得なかった。

昆虫巨編「ペリリュー島からの手紙」

戦火で焼かれた場所で繁栄する昆虫。

アメリカ軍の大規模な攻撃に備え、島の守備隊は水際殲滅作戦を捨て、洞窟陣地の構築を始めた。(略)
[日米]双方合わせて二万人以上が死傷するという、類を見ない激戦の島となった。そして戦いが終わるころには、ペリリュー島は見渡すかぎり焼けぼっくいの裸の島となっていた。
島を覆っていた緑はことごとく消え失せ、まさに焦土となった島で、しかし大繁殖を開始した昆虫がいた。タイワンカブトムシだ。(略)
枯れたヤシなどの腐朽部に潜り込んで腐食質を食べる。戦闘が終わったあとのペリリュー島には、焼かれた木がごろごろ転がっていた。戦火に焼かれた材はやがて腐りはじめ、タイワンカブトムシの格好の繁殖地となったのである。

種を維持するために「そこまでするのか」。

あるとき私は、沖縄北部にあるヤンバルの森のなかで、倒木に白いキノコがべっとりと付いているのを見つけた。顔を近づけてよく見ると、キノコの表面を無数のキノコカスミカメが走りまわっている。さらに注意して見れば、大きな雌の幼虫が、その背中に小さな雄の成虫を乗せて走りまわっていた(雄は雌の半分くらいの大きさしかない)。雄の成虫が雌の幼虫と交尾していると思い込んだ私は大いにあわてたが、のちにカスミカメムシの研究者、安永智秀博士が詳しく観察し、じつは雄が雌の幼虫に乗って雌を確保し、雌が成虫になるのを待っていることが明らかとなった。「そこまでするのか……」と、それを聞いた私はため息が出てきた。

『昆虫記』を有名にしたのは

世界では無名のファーブルを日本に広めたのはアノ人

なぜ日本において『昆虫記』が知られることになったかというと、それが当時、世界中に名の知られた本であったから、というわけではもちろんなかった。きっかけは、無政府主義者として知られる大杉栄が監獄に入った際、暇つぶしに『昆虫記』を読んだからだ。獄中で『昆虫記』を読み、非常におもしろいと感じた大杉は出獄後に翻訳を開始し、関東大震災直後、憲兵隊に殺される前に、第一巻だけは訳し終わった。(略)
[これがブレイク]
新たな翻訳者を得て全巻が翻訳され、岩波文庫などに収録されることになった

最後はとても素敵な文章でお別れしましょう。
こういうの好きだなあ。いけませんか。センチメンタルですか。オメーらは、機械でも産んでりゃいいや。

 

故国では無名のファーブル

から著者は空想する。

ファーブルは、よりにもよって祖国を遠く離れた極東の国で、自分がかくも知れわたるようになろうとは夢にも思わなかったことだろう。そのことを思うとき、日本人がとうの昔に忘れてしまった、ある高邁な理想を持った日本人がいて、彼の名がどこか遠くの国でいまも語り継がれているかもしれないと空想するのも、また楽しいことではないだろうか。
そしてもしもいつかある日、その遠い国のだれかが、かの有名な日本人の祖国を一目見ようと、はるばる日本へやってくることがあるとしたら、水田が広がり、鯉のぼりの泳ぐこの異国の風景を前に、たった一人で立ち尽くしながら、われらが友人は不覚にも感動の涙を流すかもしれない。そしてどうしてこの美しい国で彼の名が知られていないのか、不思議に思うにちがいない。不思議に思いながらも暖簾をくぐって小さな食堂に入り、不器用にカツ丼などを注文し、慣れない手つきでその異国の味を噛みしめ、やはり日本まで来てよかったと、しみじみ思うのではないだろうか。
広々とした田園風景のさきには残雪の山々が光り、食堂の隅では店主が椅子に座ってテレビを見ている。窓からは春風とともにかすかな草の匂いが流れ込み、その匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、旅人はそっと目をつぶって、ここにいたるまでの長い長い旅のことを、あらためて思い返すことだろう。