いつまで長嶋茂雄を演じつづけるのか

前回の続き。

Gファイル―長嶋茂雄と黒衣の参謀

Gファイル―長嶋茂雄と黒衣の参謀

 

とりあえず長嶋が倒れる前だったら衝撃的予言だったろう文章。

ナベツネに屈服して河田を切った長嶋。

97年9月18日の“全面降伏”ともいうべき渡邉・長嶋会談のあと、河田は亜希子にこう言われていた。
「残念ですが、これがあの人なんてす。渡邉さんの話を受けいれれば河田さんを失うことになるのがわかっていても、それでも自分のことを優先してしまうんです」
亜希子は長嶋が75年に監督に就任して以来、ストレスで健康を大きく害した。電話の向こうの亜希子はさらにため息まじりにつづけた。
「これで主人の晩年が決まりましたね……。こんど主人に会っていただけるようですが、河田さんの思うところを遠慮なくはっきりと言ってくださいね、どうかお願いいたします」
亜希子はまだ長嶋にユニフォームを脱いでほしいという望みを捨てきっていなかった。それは亜希子だけではなく一茂も同様で、河田の直言によってそれが叶うのではないかと、この日の会談に懸けているようでもあった。
だが、それは無駄な願いだった。長嶋はみずから監督を退く気持ちなどさらさらなかったのだ。
(略)
渡邉社長から実権をすべて奪われ、目の前で堀内をヘッドコーチにさせられるような屈辱を味わわされて、それでもなおユニフォームを着つづけようという気になぜなられたんですか」
(略)
「ぼくは読売ジャイアンツにいたいのですよ」
河田には聞きたくもない言葉だった。
(略)
「わたくしはこれまで長嶋家の家族個々の問題にまで関わらせていただきましたが、一茂の引退のときも、なぜわたくしはあそこまで立ちいらなければならなかったのでしょうか。長嶋茂雄は野球人としてではなく、ひとりの人間として何を一番大切にされておられるんですか。是非ともわたくしに教えていただけませんか」
長嶋は力をこめてこう答えた。
「ぼくは、家族のことなんて考えたことはなかった。野球がすべてです。そうでなければぼくはこの世界でここまでやってこられませんでしたから」(略)
堂々めぐりはすでに五時間を優にこえていた。
そこに河田の携帯が鳴った。一茂からだった。「親父まだそちらにお世話になってるんですか?」と驚いたようすだった。
「監督、この電話は一茂ですよ。こうして心配してわたくしのほうにかかってくるんです。いいですか監督、このようにご長男も奥さんも、たぶんおうちで家族みんな心配して待ってるんですよ。なぜならあなたが大事なことを家に帰って話さないからです。いつまで長嶋茂雄を演じつづけるおつもりなんてすか、身体が動けなくなったらいったいどこにお帰りになるんですか。家庭しかないんじゃないんですか」

そして2004年独りの自宅で脳梗塞

  ********

まあジャイアンツCIAといっても、「調子が悪い宮本は故障しているはずなのに何故それを隠すのだ→調査報告:家を新築中ゆえ故障判明による年俸ダウンを恐れている」程度のもの。

長嶋は生理的に野村が嫌い。

「人の悪口を言わないが、そのかわり根に持つと絶対に元に戻らない」というのが「カネやん」の長嶋評。

なんともいえない暗さをたたえた男。(略)野村はつねに弱者、もしくは敗者のダークな論理につらぬかれていて、それが一種のコンプレックスとなっている。それは自己顕示欲の裏がえしであり、西武をはなれて10年、90年からヤクルトというチームを統べる立場となってからは、むしろ人を動かすことによって自己実現する快感に転化していた。河田にはヤクルトの選手たちは完璧に野村にマインド・コントロールされているようにしかみえなかった。
河田は長嶋に、「野村さんが監督を敵視する理由がなにかおありなのですか」と訊いたことがあるが、まったく思いあたるフシがないという。
実は、長嶋は野村克也が心の底から嫌いだった。
河田はその話を長嶋本人からだけではなく、妻の亜希子からも再三にわたって聞かされていた。
「河田さん、僕は野村克也とはなんとしても相いれません」
その理由について長嶋はいろいろ具体的にあげていたが、河田にしてみれば、それは「生理的な嫌悪感」につきるようだった。監督復帰と同時に長男の長嶋一茂をヤクルトから“奪還”したのも、亜希子いわく、「野村からどんな目に遭わされるかしれない」と思ったからだという。

93年の古田と石井

古田の洞察力が鈍るときがある。
思惑がはずれて、古田にむかって作戦の失敗をぐずぐずとやつあたりする野村のネガティブなベンチワークは、いかに我慢強い優等生でも嫌気がさすことがあるとみえて、守備に移るときにマスクの奥で辟易した表情をしていることがある。そんなときの古田の配球は甘い。とんでもないときにど真ん中の球がくる。まして投手が石井一久だったらなおさらだ。テンプティ(気まぐれ)なピッチャーだから、古田の要求したところに球がこない。ランナーが出ると別人のように、逆球になったり、ボール二〜三個分もコースが甘くなる。石井がマウンドにあがったら、なんとしてでも塁に出るぞというのが巨人ベンチの決まりごとだったし、そうでもして揺さぶらなくては石井のストレートなどバットにかすりもしなかった。

PNF

諜報活動と同時に科学的治療PNFを導入、開幕絶望と報道された二年目松井を奇跡的に治療。しかし古参トレーナーたちの圧力で開店休業状態。

ジャイアンツで最初に市川のPNFを体験したのは、じつは松井ではなく斉藤トレーナーにつれられてきた吉村禎章だった。奇跡の復帰をはたしてからもう五年経つが、いまだにリハビリは欠かせない。その吉村が、宮崎キャンプのトレーナー室の施術台に横たわって、「こんな感覚は初めてだ」と感じいったようにつぶやいた。しかし彼は二度とPNFを受けようとしなかった。「市川先生、ぼくはもう先がみえているから、若い人にやってあげてください」、そういって残念そうに施術台を降りた。(略)
やはり萩原やそれまで支えてくれた当時のリハビリスタッフに遠慮していたのかもしれなかった。(略)
選手の多くは、噂に聞くPNFの効果を確かめたくてうずうずしているのだが、悪口をふりまく萩原らに遠慮してか近寄ろうとしない。シーズンがはじまって市川を頼った選手は、松井を始め、フィジカルの研究に余念のない桑田真澄と、西武出身で外様の大久保博元くらいのものだった。当時、槇原などは、部屋のすみに座りこんで桑田と市川の会話をうらやましそうに聞いているだけだった。(略)
松井につづく劇的な成功例は、木田優夫投手だった。

94年の落合

打撃不振にあえぐ94年の夏。施術台の上で斉藤光久のマッサージに身をゆだねながら、しきりにPNFをすすめるその真剣な言葉にほだされるように、落合はこう本音を洩らしている。
「ロッテ、中日、ジャイアンツと渡り歩いたが、そのなかでもジャイアンツはいちばんオレを大事にしてくれる。とくに監督は(不振の)オレをかばってくれるんだよ。オレは長嶋さんが好きなんだ。長嶋監督の努力になんとしても報いたい。もちろんPNFで桑田、松井が見ちがえるほど良くなったことはオレも知ってるよ。だけど、これまで自分流でやってきたんだ。オレはもうこの歳で先がわかっている、このままのやりかたでいこうと思うんだよ」

原辰徳のアキレス腱治療

斉藤を通して市川と関係の深い駿河台日本大学病院の「レーザー照射治療」という手法を持ちかけられたときも、必死の思いでそれに望みをつなごうとした。
ところがジャイアンツは当時、慶応義塾大学病院と医療契約を結んでおり、選手が勝手に他の病院で治療を受けることは許されない。斎藤は萩原の了解を得ようとしたが、それが逆鱗にふれた。
「おれは原の治療のためにレーザーを借りてこっち(慶応)でやるものだと思っていたがそうじゃないんだな! これは日大の売名行為だからおれは絶対に許さない。明日おれのほうから倉田に話しておく、おまえらが勝手にやってることだからな!」
結局、原はこのレーザー治療を受けることができなかった。

檄を飛ばす落合

94年9月10日、落合五番降格でチームに喝を入れるも19失点ワースト記録で大敗。選手会長吉村主導でミーティング。

そのときの模様がGファイルに克明に記されている。
吉村から発言を求められた落合は、こういって檄をとばした。
「もう残り13ゲームだ。(略)広島は、明日負けると落ちてゆく。もし、明日ウチが落としても、広島は明後日敗れれば落ちる。とにかく彼らはひとつも落とせないんだ。広島とウチのちがいは、ウチはこれまで120試合をコンスタントに進めてきているが、広島は明日勝つことしか考えていないチームなんだ、このあたりの差が必ずでてくる。あまりガタガタするなよ!
監督はオレらを信頼して任せてくれてる。監督は、責任はオレがとると言っているが、オレらがこの信頼に応えなければいかんと思うんだ。みんなわかってくれているかな」
一様に力強くうなずく選手たちを見わたして、落合はさらにダイエーから移籍してきた岸川勝也を指さして言った。
「なあ岸川、オレも含めて移籍してきた者は、この巨人軍にいてこそ、このようなプレッシャーを味わえるんだ。こういう環境をあたえられたことに感謝しよう。そしていま頑張ってそのお返しをしようじゃないか。グラッデン、コトー、ジョーンズ、オマエらもそうだろ!」
通訳の言葉にずっと耳をかたむけていたグラッデンが顔をまっ赤にして激しくうなずいている。

全部父親まかせできたから、

引退も自分で決められない原。

かつてのスラッガーも94年当時は怪我に悩まされていた。河田のみたところ、もっと長命な素材だったろうが、桑田のようにトレーニングが好きなわけでもなく、また落合ほどの技術の研鑽やチームのマインドを引っぱろうという自覚も見受けられず、「スピード&チャージ」にもろに逆行する原の用途はほとんどなかった。(略)
原も自らの限界を覚りはじめているのは明白で、市川のもとを訪れて、しんみりとこうつぶやいている。
「先生、桑田はすごい選手になりましたね。僕も早く先生についてトレーニングすればよかった」
「なにを言ってるんだ、いまからでも遅くないぞ、問題は君の心だよ。まだ老けこむ歳じゃない!」
「もうトレーニングするのが怖いんですよ。クソーっ思うこともありますけど、もう怖いんですよね」
市川が原の体をみたかぎり、それまできちんとしたトレーニングをしてきたようには思えず、生まれながらの才能を少しずつ切りくずして凌いできたような印象だったが、アキレス腱の損傷はトレーニング次第でまだ十分にカバーできるはずだった。
受けこたえのさわやかな好青年だった。だがその本心はつかみどころがなく、現役続行の意思がどれほどなのか、内奥の希薄さばかりが市川の印象としてのこった。

テレビ局関係者への原の引退相談をジャイアンツCIA(藁)が入手

(1)A氏が「これからどうする」と質問すると「五分五分です」との意味深い返事がありました。
(2)「篠塚は今シーズン限りで辞めると言ってます。多分彼は、監督に相談したのではないかと思う。自分は何時もそうなんてすが、自分の事となると勇気が出なくて、誰かに勧められての行動ばかりなんです。」
(略)[ベンチで塩漬け、尊敬する監督の役にたちたいのだけどと愚痴etc](略)
(7)「いろんな事を言ってくれたり、アドバイスしてくれる友人もいますが、僕は今決断出来ないのは、長嶋監督への思い入れなんですよね。クソーと思いながら決断出来ないんです」

河田が西武にいたころの記憶では、

この原はライオンズのドラフト指名リストになかった。(略)プロで使うにはまだ力不足で、社会人のプリンスの選手として経験を積ませてからのほうがよいという判断だった。しかし、父親の原貢はすでに息子のプロ入りを決断しており、その段階で原親子は西武から離れていった。(略)
[あれから13年相変わらず親離れしてなかった原]
(略)
長嶋にとって原の動静などどうでもよいことだったのだろう。監督を解任された長嶋と入れ違いで入団した原だから、その華々しいスラッガーとしての記憶など長嶋には絶無なのだ。一茂を原の代打に使うなど一見冷酷な仕打ちのようだが、そこにはなんの意図もない。河田が戦力への悪影響を訴えても、「河田さん、タッちゃんのことはまあ適当にお願いします」と、常にそんな調子だったから、その将来などまともに考えようともしなかった。原が何をさしおいても現役続行を主張し、ベンチに居すわったのは、長嶋への絶望の証なのである。

桑田

95年サンフランシスコ・ジャイアンツから身分照会があった(当然巨人は一蹴)ことを知った桑田は落胆。しかも借金という呪縛。
桑田がダイビング負傷した日、ヤクルトを解雇され巨人入りしていたハウエルが不調を訴えリタイア、そのままフェイドアウト
ハウエルの不可解な退団、負傷によるヒジ痛の「仮病」を噂される桑田、広島では団野村絡みの「チェコ騒動」。一連の動きにヤクルト野村の影を見る河田。
「O社長に巨額負債を肩代わりしてもらい大リーグ挑戦を目論む桑田。その席にはケニー野村。また野村夫妻がO社長と会食し、桑田の力量に太鼓判を押した」という噂が。

〈桑田選手の「心」の部分はロッカールームでも問題になっているようです。前回の大久保問題と同様に、第2戦、原選手のエラーによって桑田が、「なんでやねん、それ獲れんのかいな」、「さわやかさはいいから、プロのプレーしてくれや」、と川相が練習後に桑田から相談され、その時に言ったようです。誰かがエラーをした後に桑田のピッチングが変わるようです。野手は、それを知っているようです。>
桑田はその前からも大久保捕手の拙いキャッチングをスポーツ紙の記者にぼやいていた。それは聞こえよがしの訴えだったから、言われた選手は面白くない。(略)
河田には、桑田の心にもっと大きな異変が起こっているように思えてしかたがなかった。市川のPNFに頼りきるあの優等生に、いったいなにが起こったというのだろうか。

守旧派によるコーチ内紛。堀内・宮田が機能しないのでバッテリーコーチの山倉がブルペン捕手から情報を入れる始末。当然堀内は山倉を敬遠。

死球命令を巡る山倉報告

本日、監督から槇原投手へのデッドボール指示の後の監督の目の届かない所での状況を正直に報告いたしておきます(略)山倉バッテリーコーチからの電話連絡が入りました。(略)同氏の報告によりますと以下のとおりです。


監督から指示が出た後、僕(山倉)は村田を呼んで指示確認をした。その時に村田から、「山倉さん、堀内コーチにも徹底して下さい。あの人は、いつも絶対に槇原に何も言わないんですよ。だから、斎藤、槇原は、絶対に僕が指示、サインを出しても(死球を)投げてこないですから。」
この事を村田から聞き、僕は村田に対して、
「わかった、お前は槇原が投げようが投げまいがサインを出せ、これは業務命令だからな、出さないと罰金取るぞ! お前の責任はオレが取る」
(略)[そっぽを向く堀内につめよると](略)
「ヤマ、お前からやってくれ、頼むよ」
これはホリさんのいつもの事です。投手に嫌われる事は絶対にやらないし、出来ないのがあの人です。先ず度胸がないのです。本当はみんなの前で「投手の事はあんたの仕事だろ!」と怒鳴りたかったのですが、控えました。
槇原を呼んで業務指示、命令を出しました。同投手は、度胸がないしオドオドしていましたが、一押ししておかなければ遂行出来ないのがわかっていましたので、怒鳴りつけました。実際には二球目に恐々としながら当てたという感じでした。その後、ホームランを食らったわけです。ですから、槇原と斎藤はホリさんに甘やかされているので、あのような作業は出来ない事がわかったでしょ?
[試合後、死球にオレは反対だったという堀内に](略)
「ホリさん、何を情けないこと言ってんですか。監督指揮官の業務命令は全てに優先するんですよ。やると断が下ったら、我々は遂行するんですよ。これが、すべきじゃないと言うんだったら、どうして私が確認したときに『ヤマやってくれ』と言ったんですか! あんたはいつもそうでしょ! (略) ホリさん、もう少し責任を感じて下さい!」
と言いました。その後、槇原がガタガタ文句を言っている事を耳にしたので、本人を呼んで僕は直接確認しました。
「お前、まだなんか文句あるんか! 文句あるんだったら直接俺に持ってこい、何時でも受けてやる! 文句ダラダラ言う前に、言われないピッチングしろ!」
そう言うと、本人は「何もありません、すみませんでした」と言っていました。
河田さん、ホリさんにはあまりにも投手チーフコーチとして欠落しているものを感じます。僕はもうホリさんを信用出来ませんし、尊敬もしません。(略)
俺が監督になったときは、お前をへッドにしてやる等と聞かされてきました。でも僕は本当のホリさんの度量を知りましたので、白けてしまいます。
河田さん、あの人はいざとなったときには自分可愛さに人に罪を被せる人間ですので、これだけは覚えていて下さい。

大型契約を結んだ趙成萊を市川がチェックしたところ左股関節に問題がありヒジの故障を誘発と判明。河田は奔走、

ガルベスを獲得。

開幕直前、河田が東京ドームのサロンに入ると、彼をガルベスの通訳かエージェントだとでも思ったのか、ユニフォーム姿でソファーに座っていた落合が声をかけてきた。
「ガルベスってのは、日本でひと財産を築いて帰りますよ。ありゃあたいした投手だ」(略)
開幕するとガルベスは予想どおりの活躍をみせた。(略)なによりも彼はチームのムードをつくった。(略)
[落合への死球に対する報復死球で中日山崎と乱闘]怒ってマウンドにつめよった山崎だったが、次の瞬間、その顔はガルベスの左ストレートパンチで血まみれになった。両軍入りみだれた大乱闘のあげく、両者は退場となった。
試合後、巨人の野手たちはガルベスのもとを入れかわりに訪れ、みな口々に「サンキュー・ガルベス!」と感謝の言葉を口にした。