芸術起業論 村上隆

一時間で読めちゃう厳冬者の寒々しいサクセス本。でも面白い。美術界のホリエモンみたいなもので、既得権益批判とかはまっとうなのだが、じゃあ実態があるかというと単に勝ち組なだけじゃないという。でも言ってることは物凄くナットクしちゃうんだよなあ。褒めてんだか貶してんだか。

芸術起業論

芸術起業論

  • 作者:村上 隆
  • 発売日: 2006/06/01
  • メディア: 単行本

とりあえず村上隆に嫌悪感を抱いてる人をホロッとさせるエピソードから。

貧乏話

ぼくは、36歳になる頃までコンビニの裏から賞味期限の切れた弁当をもらってくるような、お金のない時期を経験しました。
酒屋やスーパーマーケットの裏から梱包用の段ボールをもらわなければ、作品ができても梱包発送ができなかったのです。
お金のない時の動きというのはそういうものです。何をするにも異様に時間がかかる。そういう時間を縮めるために金銭の力が必要になるのです。
金銭があれば、制作する時間の短縮を買えます。
理想のシナリオを手元にひきよせられます。
(略)
何があっても作品を作り続けたいなら、お金を儲けて生き残らなければならないのです。芸術家も一般社会を知るべきです。

30歳で本場NYに行ったけれど

英語は話せないし、それまで作ってきた作品も日本の美術界へのあてこすりでしかなかったことに気づいてしまいました。
「自分には、そんなものしかないのか?」
自問自答しても、答えは見つかりません。
恵まれた環境、つまりアートの中心NYにいながらメトロポリタン美術館にもMOMAにも行く気になれません。
本屋で日本のアニメ誌を見る。
日本の漫画を読んで、泣く。
部屋でアニメの模写をする。
最先端のアート情報あふれるスタジオで作品を制作するはずだったのに、ぼくは毎日ペンキでアトリエを白く塗る日々を過ごしてしまったのです。(略)ぼくのリアルな芸術というのは、そういう窮地でたまさか見つけたものなのです。(略)
ぼくの等身大の感情は、ニューヨークの町角で日本のアニメを見かけると「お!」と思うというものだということがはっきりしました。
差別されたオタク文化から距離を取っていたはずの自分は、絵が動いている姿を見たり考えたりすることが好きでしかたないのだとわかったのです。
また、現代美術の勉強をすればするほど、オタクの差別された社会的状況や情報のドグマぶりこそが、自分のリアルな表現にはなくてはならないように思えたのです。
オタクから日本人が本質的に抱えこむ何かを示すことができるのではないか、と。
自分のバックグラウンドはここなんだ……もう正直にいってみるか!
そんなように改めてやりはじめたんです。

NYで膝を抱えてシックシックな隆には、この曲がオススメ。きっと号泣。「きみみたいにきれいな女の子が、どうして泣いてるの」

きみみたいにきれいな女の子

きみみたいにきれいな女の子

 

欧米芸術界のルールをふまえなければ世界では通用しない。

欲望の強さは芸術制作の邪魔にはなりません。むしろ問題は日本の芸術家に強烈な欲望がないことです。
芸術家になる根拠の濃度を高めれば、やりたいことがはっきりします。
携帯電話やガングロや下着売りや少女売春などという近年の日本固有の事象や風俗を追いかけるだけでは、外国人への衝撃も与えられません。もちろん既存のアートフォームのおさらいだけでは歯牙にもかけてもらえません。
ニュースは、個人の「業」から出るものです。
自分自身のドロドロした部分を見つめなければ、世界に認められる作品なんてできません。
欲望の方向が見つかる。
走りだしはじめる。
あとはもう長期戦を覚悟すべきです。

日本の美術界

大学や専門学校や予備校という「学校」が、美術雑誌を支えているわけです。金銭を調達する作品を純粋に販売して生業とする芸術家は、ここでは尊敬されるはずがありません。これは日本の美術の主流の構造でもあるのです。
「勤め人の美術大学教授」が「生活の心配のない学生」にものを教え続ける構造からは、モラトリアム期間を過ごし続けるタイプの自由しか生まれてこないのも当然でしょう。

美術手帖』あたりに一度でも作品が掲載されてしまえば、それだけで最高にハッピー。
それからはどこかの美術の先生になる権利を手にいれて、小さい安全な芸術の監獄の中でブイブイ言わせて一生安泰で終わりたがるような希望は、本当に芸術ヤル気あるの?と疑ってしまいます。

セレブ自慢でメイドフィギュアが6800万

「アートを知っている俺は、知的だろう?」
「何十万ドルでこの作品を買った俺って、おもしろいヤツだろう?」
西洋の美術の世界で芸術は、こうした社交界特有の自慢や競争の雰囲気と切り離せないものです。そういう背景を勉強しなければ、日本人に芸術作品の真価は見えてこないのだと思います。ええ、くだらない金持ちのザレ事ですよ。でもそれを鼻で笑いたければ、世界の評価基準に対して一切口出しをしないでほしいわけです。
たとえば、ぼくの作品に6800万円の値段をつけてくれたのは80歳近いアメリカの老夫婦で、既に会社を売って隠居されている方でした。
(略)
アメリカの富裕層には評価の高い芸術を買うことで「成功したね」と社会に尊敬される土壌があります。そういう人たちが、商売相手なのです。

オークションハウスは、購入希望者たちと丁寧なランチミーティングを重ねてゆきます。
「あの美しい日本人の女の子のフィギュアのハートを射とめるのはいったい誰かしら?」
購買欲、征服欲、勝利欲など欲望を刺激する言葉で盛りあげるのもオークショナーたちの仕事です。
(略)
金銭を賭けるに足る物語がなければ芸術作品は売れません。
売れないなら西洋の美術の世界では評価されません。この部分を日本の芸術ファンは理解できない、理解したくないんです。

目利きには贋物扱いされた魯山人

確かに彼の陶器には下卑たところがありますがウォーホールと同様に「確信犯のバッドテイスト」なのですから、業界の常識を覆す能力を評価しない日本人の基準の方が、貧しかったのではないかと思います。
彼こそが、日本におけるアンディ・ウォーホールなのだと捉えると、非常にしっくりくるのです。
自慢の陶器に乗せた料理で政財界の要人をもてなす会員制の美食クラブ星岡茶寮」を開いた魯山人は、ドラッグを媒介にパーティーを開いたウォーホールのようなものです。(略)
階級社会を軸とした金銭や権力の構造を掴んで「もてなし」に集中力を発揮したのです。(略)
日本で贋物と揶揄されやすい魯山人の方法こそが、むしろ過去から現在にかけての欧米の美術の世界では主流とされる方法なのです。

出世の三段階

まずは芸術の本場の欧米で認められる。そのためには、本場のニーズに合わせて作品を変えることも厭わない。
次に欧米の権威を笠にきて日本人の好みに合わせた作品を逆輸入する。
そしてもう一度、芸術の本場に、自分の本来の持ち昧を理解してもらえるように伝える。
スーパーフラット』展でアメリカに認められ、日本で作品を展開し、『リトルボーイ』展で本来の自分の思うリアリティを表現する。
ぼくはその三段階をいったん実現し終わりました。

中途半端な美大インスタレーションしかつくれないアシスタントをどう開眼させたか。「コミケでエロ同人誌を買う時が一番ハッピー」だと聞きだし

興味を持ったぽくは、彼がひそかに描いていたロリコン的な少女の大量のスケッチを見せてもらいました。
するとそこにはインスタレーションでは末消化だったはずの彼のリアルな魂の声があるのです。
「あ、ここにあったんだ」
彼の心のボタンを発見しました。
その後の彼の作品は……破廉恥極まりないものばかりになりました。
夜、小学生の女の子と手をつないで歩いている全裸の自画像の絵画。
しかも自画像の性器には裸の小人の男の子が元気に笑って立っているのだから、正直、これは犯罪じゃないかとも思いますけど、絵画だから犯罪でも何でもありません。
エロティックではありますが、彼自身の心の核心部分が投影されていたのです。

海洋堂

オタキングの紹介で海洋堂に行くも「オタクがわかってない」とけんもほろろ。それでもどうにか相手にしてもらえるようになったけど、「等身大フィギュア」というコンセプトをしっかりパクられて綾波フィギュアを先に完成されてしまう。それでもめげずに次回作のために海洋堂に寝泊りしてたら社長のおめがねにかなう。

最近の海洋堂はよくない。儲かっているのが、よくない。
昔は、儲からなくても、熱があったのに……いまのムラカミさんを見なさい!
この寒空の下、若者たちと、みんなでさんざん、シンナー中毒になられている!
それで、若者たちには弁当代も出さないなんて、こんなやつに人がついてきているのが、いまどきめずらしいじゃないか」

美術のルールを読み解く方法

予備校で毎日デッサンを描いている人なら、平面構成をした後に、
「いいと言われたもの」
「悪いと言われたもの」
「自分自身の好きなもの」
を並べて見るだけでわかるのです。
自分の探さなければならない歴史が、まずわかります。
わかったら、実際に歴史を読み解けばいいんです。
そうすれば美術のルールはすぐに理解できます。
自分の惹かれているものを読み解くと、欧米の美術のルールだけとは言わず自分の動いているルールそのものも摑めるはずです。

ふぬけ文化が世界に受ける

[アメリカに負けた]日本の戦後の文化は「国家」の中心の基盤が抜きとられているところがあります。(略)
戦争するしないも含めて「国家」が考えるということを、うまくできませんでした。
その状況こそが、実は日本の平和のなりたちであり実態でもあると思うんです。
「国家」を取りあげたらふぬけた世界観が蔓延したという実例が日本で、そういう世界の芸術はアニメや漫画という卑近なところに出現することになるのです。
つまり日本人の敗戦後の「基盤を抜きとられた世界観」は、今後世界中で共感を受ける文化としてひろがるのではないでしょうか。まさにこちらの芸術理論の構築も待たれるところなのです。

リトルボーイ』展を開催するにあたり実感したのは、日本は戦争に負けて復興したのではなく、戦争に負け続けているということです。(略)
今はアメリカもりベラルな都市に行くと同時多発テロイラク戦争の影響で、「勝ち」だけではない雰囲気がかっこいいとされているわけです。
そういうところに負け組の長たる日本人が行くと、
「負け文化はこう組織化するのがきれいなんだよ」
とか教えることができたりするかもしれません。
このことは、日本の文化をそのまま持っていっても評価される時代がすでに来ているということだと思います。
そのために必要なものは何か?もちろんそれは、世界に持っていくというガッツです。

「挑戦の痕跡」

ウォーホールの作品は、感動も呼ばないし、インテリジェンスもありません。むしろ感動を呼ばないように細心の注意を払っていたりする……しかし一方でリキテンシュタインはインテリだし作品のクオリティも高いし生前に評価されたわけです。
ところが死後になると、美術の世界のルールを変えたウォーホールの人気こそがうなぎのぼりなのです。
そんなふうに、欧米の芸術の世界では、ルールとの関係性における「挑戦の痕跡」こそが重んじられるというリアリティがあるのです。欧米におけるアートはルールのあるゲームです。
芸術家は巧妙なからくりを作る張本人ですが、芸術家が死ぬと、人生のすべての文脈が見えてくるわけです。

絵を集中して見るとレイアウトや筆致から「その人の頭の構造」が見えてくるんです。
意図するものも、意図せぬものも、痕跡の形からわかる。これは訓練で身につきます。(略)
[その方法とは]
絵を見せますよね。
キリスト教の思想の中でこういう意味づけがある」
絵を読むためのルールをまずは勉強させるのです。
ルールを習得する途中に大量の絵を見ると、自分の好きな絵がわかってくるわけです。
ここで好きな画家の傾向を文章でまとめさせます。
好きな絵から何か見えてきたかを書きださせます。
「このへんは削った方がいいね。もう一回、800字で書いてみて」
すると、だんだん書くことがなくなってゆきます。
書くためのネタが要るから歴史を調べたりすると、絵が前と違って見えてくる。
だんだん、筆の痕跡から、芸術家本人の心に肉薄してゆけるようになるのです。
葉が枯れてゆくのを見るように、人の筆や顔から自然が見えてきたりもします。

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